このページトップの写真は木村蒹葭堂とわたしです。もう見飽きたという方もおられますが、あと1日(更新するまで数日かも)ご辛抱くださりませ。
西区堀江にある大阪市中央図書館の敷地に「木村蒹葭堂邸跡」という碑が建っています。以前から気になっていたのですが、今年はじめに大阪歴史博物館で木村蒹葭堂(けんかどう)展があったときは、全然関連に気がつきませんでした。11月になって図書館のギャラリーで展覧があって、カタログを買い、ようやくあの蒹葭堂さんのこととわかったのです。以下はカタログからの受け売りに感想を交えて書きます。
いまから200年以上前の江戸時代の後期、近世大阪の趣味人であり町人学者として知られる蒹葭堂さんは、北堀江に住んでいました。比類なき趣味人であり、ありとあらゆるものに興味を持っていたと言われています。生家は中流の町人でしたが、子どものときから一流の師について画を習い学問を学びました。12歳で京都の学者に入門し本草学を修め、茶事では売茶翁につきました。当時の町人だと読み書きソロバンができたらいいくらいだから、破格の教育を受けたことになります。
カタログにはたくさんの書や絵があるのですが、図書館にはあまり数はありませんでした。でも竹を描いた掛け軸が二枚並んでいて、その絵もさることながら、わたしは表装の布地の柄に感心しました。ウイリアム・モリスのような模様なんです。
書はわたしには読めませんでしたが、なんか品格があったような。それから博物誌のようなもの。魚や貝や動物の絵のレイアウトがすごくいいんです。
楽しそうな標本箱もありました。木の箱ですが、3センチ角くらいに区切ってあり、珍しい貝や石が並べてあります。それが重箱みたいに三重、四重に重ねてあるんです。
そうした展覧の中に、へんな形の急須がありました。小さくいびつな四角形です。今回の催しではじめて世に出た蒹葭堂自作の急須なんだそうです。ヘタクソなんだけど味がありました。これで煎茶を飲んでいたのかと親近感を覚えました。
特筆すべきは、蒹葭堂の交遊の広さでしょう。残されている20年間の日記には9万人の名前が記されているそうですが、すごいデータベースですよね。あーあ、蒹葭堂さんはインターネットがなかった時代の人ではありますが、優れてインターネット的人間だったんですねー。