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ジャズ的なるもの 続き

阿木さんとの会話の中で気安く「なぜ阿木さんがいまジャズなのかわからない」と言って「まだわからんのか」って言われてしまった。いらん一言を言わんといたらよかったと一瞬思ったが、その後のけっこう懇切丁寧に言っていただいた会話を今日反芻して、かなり自分なりの整理ができたと思う。阿木さんがジャズは“文学”ではないと言われたとき、わたしはジャズは“文学”だと信じ込んでいたので混乱してしまったのだが。
それで今日は一日わたしにとってなぜジャズは“文学”なのかを考えていた。ジャズ体験の最初は家に古いジャズレコードがありルイ・アームストロングやグレン・ミラーを聴いて育ったわけだが、その後がいけない。これが正しい道とばかりに“文学”としてジャズを聴きはじめたのだった。最初に行ったコンサートがアート・ブレーキーとジャズメッセンジャーズだった。当時ファンキージャズという言葉が流行って、安保反対のデモに行くのに、ファンキージャズデモと言った人がいた。その後は「ジャズと自由は手をつないで行く」とナット・ヘントフが言った。まったく音楽を聴いているのやら“文学”を置き換えていたのやら。ニュージャズにいたってもっと純文学性が強調され、それが行き詰まったとしてジャズを離れ、パンク・ニューウェーブを聴きだしても、それは同じく“文学”を聴くことなのであった。と言っても聴いていたジャズが“文学”だったわけではない。ジャズは音としてあったのに、勝手に聴き手のわたしが“文学”をくっつけてしまっていたのだ。
阿木さんはジャズに文学性を認めるとしたらせいぜい“俳句”だと言う。そこのとこを理解できたような気がしてきた。だけど、わたしってこんなに長くジャズやロックを聴いてきたけど、なにをやってたんだろうと少々情けない。いまからでも遅くないと思いたい。

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2005年05月08日 18:03に投稿されたエントリーのページです。

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