70年代にわたしは流行していた吉本隆明の本を2冊手にしたが、2冊とも途中までしか読めなかった。それ以来敬遠したままだった。「アンアン」かなんかでコムデギャルソンだかの服を着ている写真を見たこともあったっけ。折につけ新聞や雑誌でわりと目につく人だが、それらの記事を読むこともあまりしていなかった。
今日の朝日新聞の記事を読む気になったのは、テーマが「老い」だからだ。めっきり老けられた写真を目にして、なにを語っているのか気になった。自分より先に年をとっていかれる人の言動が最近気になる。“ああなったらあかん”というのもあるし、90歳になって自分史を書いておられる人(わがVFC会員)には、わたしもそうなるように踏ん張ろうと思う。
吉本氏の繊細な老人の心理についての発言は、記事を読んでもらうことがいちばんなので、気になる人は今日の朝日新聞を読んでほしい。
わたしが感銘を受けたところを書いておくと、【老人という存在はその時間的距離をもう少し大きくした「人間以上の存在」なのだから、それは「超人間」だ。】と述べておられる。そして政治や歴史に属する「大きな歴史」だけでなく個々人の「小さな歴史」があること、大きな歴史だけを「歴史」として考えるのは不十分だと述べておられる。
吉本氏はそのあたりの表現をミシェル・フーコーの本の中で出会った言葉で語っている。【フーコーは、自己への配慮はすなわち社会への配慮に転化できる、配慮という言葉が社会意識や政治意識への配慮も同時に含んでいるということを言いたいのがわかる。】ということで、大きな問題を考えるときも、それを自分の問題とつなげて考えることが大事なのだということ。このあたり大賛成。さすがフーコーええこと言うてる。
最後に老人の問題はやっぱり老人になるまでわからなかった、と言っておられるけど、そう言われてしまうのもなぁ。思想家でしょうが。
いまなら吉本隆明の本を最後まで読み通せるかもしれないけれど、いまさらそれはしない。読むべきはフーコーの「性の歴史」だろうと、ルーペで文字を拡大しながら書物を読む、彼の写真を見ながらわたしは思うのであった。