辻原登さんの作品をはじめて読んだのは朝日新聞に連載された「花はさくら木」で、おもしろくておもしろくて、新聞を手にするとまっさきに読んでいた。単行本になったときはすぐに買った。こんなおもしろい小説を書く人がいるものだと思った。
毎日慌ただしく暮らしているので、他の作品も読もうと思いながら日が過ぎたが、年末に図書館に行ったとき思いついて借りたのが本書である。このタイトルは聞いたことがあったから、書評かなにかを読んだんだろう。そのときに読んだらもっと早く辻原登を知ったのに残念なことをした。
本書はおもしろいというだけではなくて、「花はさくら木」でもそうだったが、なんとも言えない品があるのだ。思い出したのが吉田健一の「金沢」だ。
主人公は遊動亭円木という二つ目の落語家で、真打ちにもう少しというところなのだが、糖尿病で白内障がすすんで水晶体が濁ってしまいほとんど盲目である。妹夫婦が持っているマンション「ボタン・コート」の一室に居候のように住んでいる。たまに昔の贔屓筋からお座敷によばれて噺をする。
気のいい妹夫妻、ボタン・コートの住人、明楽(あきら)という昔から贔屓にしてくれている旦那、それらの人たちとの関わりがおもしろい。
明楽が相撲の枡席をとってくれて、円木はマンションの三人を誘って行くことになるが、その三人は当日現れず、目の見えない円木だけがテレビに映る席に姿勢よく座っている。来ない三人の連れの女たちがテレビを見て、円木が一人なのでおどろく。だが「すっと背が伸びて高座にいるみたい」。その円木は相撲を見ながら「おい、おれはひと皮むけたようだぜ」と自分の肩先につぶやき、ぶきみな笑いを浮かべる。相撲の呼び出しの声の描写などゆったりとあった後の、ここがすごくいい。
円木の昔の女が訪ねてきたとき、彼は不在だったのだが、妹夫妻が接待しているうちに、二人とも彼女にいいようにされてしまうのもおもしろい。
話はたゆたうように進んでいき、円木の目は一瞬惚れた女の顔が見えた後に完全に見えなくなる。その女寧々との出会いもおもしろい。
不思議な女たちが円木をめぐって出てくるのもおもしろい。落語家が主人公だから落語の話もいろいろある。ゆっくりと味わってもう一度読もう。