辻原登「花はさくら木」に酔う
こんなにおもしろい小説にお目にかかることは滅多にない。土曜日にジュンク堂で買ってから人を待つ間に読み、電車で読み続け、帰ってからも読んで、翌日読み終わってからは気に入ったところを読み返した。今日になったら憑き物が落ちたような感じだけれども、楽しい小説を読んだ歓びで気持ちがよい。
朝日新聞に連載中から毎朝楽しみに読んでいて、そのことを去年の12月1日の日記「木村蒹葭堂(きむらけんかどう)展」に書いている。堀江の超文化人 木村蒹葭堂さんも本書に登場しているのだ。
十代将軍 徳川家治の時代、御側御用取次 田沼意次は江戸から京都へ行く。当時の大坂はシカゴよりも先に世界最初の先物取引をした大商業都市であった。そこの中心人物 鴻池善右衛門と幕府が手を組んでやっていこうという、先を見据えた政策を考えたのである。それには密貿易で巨万の富を得た北風をつぶさねばならない。部下の青井ほかお庭番が京都へ入り活動する。北風の娘として育った菊姫と青井の恋、菊姫と親しくつきあっている内親王の智子は後に女帝(後桜町天皇)となるお方である。その上に当時の文化人がたくさん登場する。
なんと田沼意次と町娘のかっこをした内親王智子とおつきたちが船で大坂見物にきて、天満で泊まり、翌日は道頓堀で“ふく”を食べ、芝居小屋で文楽を鑑賞するのだ。
本書を読んだ人はだれでも田沼意次ファンになること間違いなし。昔の思い人と過ごして別れていくところもなんとも言えない情感があふれる。
ただおもしろいだけではなくて学ぶところもある。こんなことを若い武士に向かって田沼が言う。【「無私の精神だよ。私利私欲のなさこそ、われわれの力の源泉だ。人のよさという意味ではないぞ。むしろ、われわれの無私は人が悪い。意地悪すぎるほどだ。田安さまのほうがよっぽど人がよい。しかし、無私の精神によって、われわれは世間をみおろす。具体的には、公平、公正な政治をおこなうこと」】。
また田沼は近松の床本を読んで思う。近松の心中ものの中での【男女の生き死にのさまは、武士道と同じ高みにまでのぼっている。と田沼は感じた。彼らは弱さから死ぬのではない。出会ってしまった、非常にいい相手に恋慕したのだという運命を引き受けて、死んでゆく。添えないから死にます、ではないのだ。】
もちろん、青井三保と菊姫の恋はすてき。内親王が恋の涙を友情の涙にみせかけることに成功したところもすてき。ああ、楽しかった。(朝日新聞社 1700円+税)
