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木村蒹葭堂 アーカイブ

2003年12月09日

木村蒹葭(けんか)堂という人がいた

このページの上の写真(※)見てくれはった? けんか堂さんの横でちょっと緊張しているのはわたしです(笑)。場所は大阪中央図書館のギャラリーの入り口です。江戸時代、堀江に木村蒹葭(けんか)堂という人が住んでいました。堀江はわたしの住んでいる西区新町の隣りの町です。けんか堂さんは近世大阪の趣味人として知られている人で、本名は坪井屋吉右衛門。蒹葭は芦の根という意味で、庭で井戸掘りをしていて偶然、芦の根を掘り出し「これは古来有名な浪華の芦に違いない」ということで書斎の名前としました。
わたしをエスコートしてくれているかのような立像(?)は、今回の展示をするにあたり、主催者が谷文晁の描いた肖像画(重要文化財)を元に、背丈を割り出して作ったものだそうです。
今年は没後200年ということで、大阪歴史博物館で1月に大がかりな展示があったのですが、わたしは行きませんでした。単なる偉い人だと思っていたからです。ところがですね、いま図書館で展示されている絵や書を見、説明を読んで、これは単に偉い人ではないと知ったのです。運よく歴史博物館発行のカタログを売っていたので買っていま読みかけています。
けんか堂さんはものすごく幅の広いインテリなんですね。「蒹葭堂日記」は44歳(1779年)から書き始めて亡くなるまで24年間続きましたが、そのうち20年分が残っています。その日記には交流した9万人の有名無名の名前がしるされているそうです。(後日に続く)
※プロフィールの写真です。

2003年12月30日

木村蒹葭堂のこと

このページトップの写真は木村蒹葭堂とわたしです。もう見飽きたという方もおられますが、あと1日(更新するまで数日かも)ご辛抱くださりませ。
西区堀江にある大阪市中央図書館の敷地に「木村蒹葭堂邸跡」という碑が建っています。以前から気になっていたのですが、今年はじめに大阪歴史博物館で木村蒹葭堂(けんかどう)展があったときは、全然関連に気がつきませんでした。11月になって図書館のギャラリーで展覧があって、カタログを買い、ようやくあの蒹葭堂さんのこととわかったのです。以下はカタログからの受け売りに感想を交えて書きます。
いまから200年以上前の江戸時代の後期、近世大阪の趣味人であり町人学者として知られる蒹葭堂さんは、北堀江に住んでいました。比類なき趣味人であり、ありとあらゆるものに興味を持っていたと言われています。生家は中流の町人でしたが、子どものときから一流の師について画を習い学問を学びました。12歳で京都の学者に入門し本草学を修め、茶事では売茶翁につきました。当時の町人だと読み書きソロバンができたらいいくらいだから、破格の教育を受けたことになります。
カタログにはたくさんの書や絵があるのですが、図書館にはあまり数はありませんでした。でも竹を描いた掛け軸が二枚並んでいて、その絵もさることながら、わたしは表装の布地の柄に感心しました。ウイリアム・モリスのような模様なんです。
書はわたしには読めませんでしたが、なんか品格があったような。それから博物誌のようなもの。魚や貝や動物の絵のレイアウトがすごくいいんです。
楽しそうな標本箱もありました。木の箱ですが、3センチ角くらいに区切ってあり、珍しい貝や石が並べてあります。それが重箱みたいに三重、四重に重ねてあるんです。
そうした展覧の中に、へんな形の急須がありました。小さくいびつな四角形です。今回の催しではじめて世に出た蒹葭堂自作の急須なんだそうです。ヘタクソなんだけど味がありました。これで煎茶を飲んでいたのかと親近感を覚えました。
特筆すべきは、蒹葭堂の交遊の広さでしょう。残されている20年間の日記には9万人の名前が記されているそうですが、すごいデータベースですよね。あーあ、蒹葭堂さんはインターネットがなかった時代の人ではありますが、優れてインターネット的人間だったんですねー。

2005年12月01日

木村蒹葭堂(きむらけんかどう)展

木村蒹葭堂展がいま大阪市中央図書館のギャラリーで開かれているので行ってきた(12月15日まで)。一昨年、木村蒹葭堂をはじめて知って感激し、感想をこのページの2003年12月30日に書いている(蒹葭堂さんとわたしのツーショットもあるのでご覧ください)。
今日はその感想にちょっと付け加えることがある。
数日前まで朝日新聞に連載されていた、辻原登さんの「花はさくら木」に木村蒹葭堂が登場していたのだ。たいへんおもしろい小説で、新聞を広げるといちばん先に読んでいた。中心の太い柱が田沼意次で、その部下の青井と菊姫の恋があり、実存の人物でのちに女帝、後桜町天皇となる智子内親王の麗しい姿がある。
田沼意次についてはなんにも知らなかったが、池波正太郎の「剣客商売」で魅力ある存在に描かれていたので、興味を持っていつかきちんと知りたいと思っていた矢先である。ここでもとても魅力のある人として描かれている。京都へやってきて第一級の文化人と交流してもひけをとらない教養がある。蕪村や蒹葭堂に対してもおごらずこびずである。
そして売茶翁! なにかにつけ出てきて一服のお茶を煎れる人。今日は図書館の展示に売茶翁の茶具図があった。4枚の縦長の紙に筆でお茶を入れてある籠、火桶などが描いてある。ほおーっと思ってその前で長居した。展示してある煎茶を煎れる急須は蒹葭堂がつくったものだがなんとも言えない味がある。これでちょっと一服したいものだ。
蒹葭堂さんは堀江の地で長い期間年寄役をしていたが、田沼意次が失脚して松平の時代になってから、家業の酒造の量が多いと咎められて一時大坂を離れたという。
だんだん江戸の世の中がわかってきたような気がする。まずは「花はさくら木」の単行本を買って、そのあとは歴史の勉強をするか。

2006年12月26日

図書館が今日で終わりなので

木村蒹葭堂のサロン 中村 真一郎買ってある本がまだ読めてないし、置いてある本も再読したいのがたくさんあるしで、長いこと図書館にはご無沙汰していた。
でも、お正月にはこれを読もうと決心した本(中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」)がある。最初は買うつもりだったが、なんと〜5880円もするのだ。いまの財政状態ではとても買えない。図書館の在庫を調べたら中央図書館に3冊あって予約は入っていない。それじゃというんでひどい雨の中を借りに行った。今日で終わりなのに図書館はがら空き。普通はこんな雨じゃ行こうと思っていても引いてしまうよね。そこを行くところがエラいというかアホというか(笑)。
3階の大阪関連資料のところだとネットでわかってたのでいったら、相談係の人が置いてある場所を検索して連れていってくれた。研究者に見えたのかも(笑)。木村蒹葭堂の本は他にもあるというので見たら1冊は持っているし、もう1冊は重そうなので次ぎに借りることにした。借りた本は分厚くて(45ミリ)重い。抱きかかえて持って帰った。
その他、カバンに入るだけと辻原登さんの本を2冊借りた。「花はさくら木」以来気になっている作家だ。この間大佛次郎賞をもらいはったので、貸し出し中かと思ったが、5冊在庫があった。この2冊(「遊動亭円木」「枯れ葉の中の青い炎」)がよければまた借りて読もう。

2007年01月03日

中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」まだ半ばにいたらず

木村蒹葭堂のサロン 中村 真一郎思っていたよりずっと易しい文章で内容も楽しく読めているが、とにかく分厚くてなかなかだ。第一部第一章がもう終わるというところである。全体の三分の一に辿り着いた。
全体が素晴らしい本なのだが、あっと声をあげたところを書いておく。
【この二世紀の間に、わが国の知識人の教養の水準と方角とは全く異なってしまったことは、ほとんど異民族の侵略による、伝統の入れ替えを思わせるものがある。(中略)しかし二十世紀の日本の知識人は、中国古典学の教養を共通の精神的結び付きとしていた十八世紀人に対して、彼らの全く知らなかったシェクスピアやカント、トルストイやボードレールを、その連係の地盤に求めているのである。】
わたしだって幼いときから西洋の本を翻訳したものを読んで育った。いままで全く疑問を持たなかったし、いまだって翻訳ミステリーがわたしの規範になっている。そして翻訳物よりも未知な世界のものとして、池波正太郎の「剣客商売」や辻原登の「花はさくら木」を読んでいる。
そもそも本書を読もうと思ったのも、いつも大阪市立中央図書館前にある木村蒹葭堂の碑を眺めているせいと、「花はさくら木」に登場する蒹葭堂と周りの人たち及び田沼意次について知りたくなったからである。田沼意次はまた「剣客商売」に登場していて、先入観を変えてくれていたので興味がわいていた。
不純な動機からはじまった読書だが、江戸という時代がどんなだったかを驚嘆しつつ読んでいる。忠臣蔵と捕物帳くらいしか知らんかったんやから(笑)。その時代の、大坂、堀江・新町の姿が見えてきて、日常的に歩いている街とだぶってくる。とても幸せな読書をしている。

2007年01月07日

牡丹散て打ちかさなりぬ二三片

子どものとき家に「スタイル」(いろいろと雑誌があった家だけれど多分これ)という雑誌があって、小島政治郎(こちらも多分だけど)の連載小説があった。ようこんなのを子どもだてら(?)に読んだものだといまになって思う。お金持ちのきれいな奥さま(未亡人?)がいて、おそろしくごつくてブサイクな男が使用人である。奥さまには恋人がいたのだったか、別れたのだったか。なにかのショックで奥さまは気を失う。その様子を「牡丹散て打ちかさなりぬ二三片という感じで倒れた」と表現していた。わたしはいたく感心していまだに覚えているのだが、蕪村の句と知ったのはずっと後だった。
使用人はその息も絶え絶えの奥さまを抱き上げてベッドに運び、着物をそろそろと脱がす。その後も献身的に仕えるのだが、最後に奥さまはその男といっしょに暮らす道を選ぶ。えらいショッキングな小説でありました。わたしの最初の蕪村体験は幸福だったのか不幸だったのか(笑)。
わたしは「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら」がいちばん好き。

いま「木村蒹葭堂のサロン」を読んでいるのだが、蒹葭堂さんと蕪村は親しくしている。だけど蒹葭堂さんには蕪村の良さがわかっていないと著者の中村真一郎さんは書いている。蕪村は当時も一世に聞こえた画人であるが、二十世紀に至っても前衛性を維持している人であると。【萩原、安藤二家によって、蕪村のポエジーの業績は、はじめて正当にヴェイルを剥がれるに至ったのである。十八世紀の世粛にとっては、冗談なのか本気なのか評価の仕様のない迷惑な代物であったことは、推測に難くない。】(※萩原は萩原朔太郎、安藤は安藤次男。世粛は蒹葭堂さんの名前。)

2007年01月10日

中村真一郎に教えてもらったネルヴァールのこと

「木村蒹葭堂のサロン」から本題以外のいろんなことを教えてもらっている。今日はネルヴァールのことを書いておこう。わたしが「オーレリア」を読んだのは70年代のことだった。その中か他の作品だったか、村の娘たちが手編みのレースを編む仕事から、工場で機械編みの女工になっていくことを書いた部分があった。産業革命だなと思ったのを覚えている。
中村真一郎は、平賀源内や司馬江漢のことを、夢のなかに生きることで、日本の文明に、西洋に向けて大きく窓を開けた人物たちと書いている。そして、彼らのことを考えるとき、19世紀半ばのフランスの夢想家、詩人ネルヴァールを連想するという。ネルヴァールはその夢想によって、閉鎖的なフランスに、東邦に向かって大きく窓を開いた。また考古学的な夢想によって、キリスト教を古代宗教の発生以後の中途に生まれた一宗教に過ぎないと相対化した。
そして続く。
【更にはタイプライターを発明(発明の2文字に傍点がふってある)することによって、当時の若き知識人の生活の基礎であった写実生という職業に脅威を与えるという結実を招いたりした。】とあるのだ。
あっと驚いた。まるで10年ほど前の出来事と同じだ。コンピュータの出現が、瞬く間にたくさんの写植業の仕事を奪った。それはものすごい早さで写植機をなぎ倒し、それで生計を立てている人々を失業に追いやっていった。
そのとき、わたしは新しい産業革命のまっただ中にいることを実感したけれども、もちろん前世紀にも同じようなことがあったわけだ。夢想家として知っていたネルヴァールにこんな一面があったとは。
ああ、またネルヴァールを読まずばなるまい。

2007年02月05日

「木村蒹葭堂のサロン」の意味がわかった

木村蒹葭堂のサロン 中村 真一郎「木村蒹葭堂のサロン」を最後まで読んで、なんで中村真一郎が「サロン」というタイトルにしたかを理解した。
サロンについてこう書いてある。
【「サロン人」という、主人公、あるいは女主人公が自宅の客間を開放して、広く客を迎え、そこをその時代最高の知的芸術的諸問題の討論の場とし、酒食を供することで、集まった多くのエリットたち相互の親交を深め、一時代の文明の水準を急速に高める働きを行う仕事をした人物である。】
西欧の場合は、中世までは宮廷文化だったが、その後に生まれたとしてイタリアルネッサンスの中のフィレンチェ、ヴェネチアの例をひいて説明がある。フランスでは17世紀にはじまり、18世紀に唯物論哲学者たちの加入によってフランス革命の発生源となり、19世紀にはローマン主義運動の中心であったとプルースト等の例を引いている。
そして、わが蒹葭堂さんの大坂のサロンが、江戸の谷文晁らの新画風を発展させた状況についても述べている。
さて、サロンというからには、女性の参加がないと、と思うのはわたしだけではないだろう。その答えをちゃんと書いてある。
【サロンの東西に通じての共通点は、男女の知能が同水準にあり、平等の交際をしていることで、蒹葭堂のサロンも、妻妾ふたりが博物館の学芸員として会話に加わり、三好正慶尼のような著名な学芸人も加わっている。】
ということで「サロン」の謎が解けた。はるか江戸時代に成熟した大坂のブルジョワ文化が花開いていたのだ。
いやもう、なんと言おうか、めっちゃくちゃおもしろく読んだ。わらわも知的な女になったような気分である(笑)。
サロンというにはほど遠いが、VFCの例会という場を大切にして、大阪からなにかを発信できたらいいなと深く思うのであった。

2007年02月28日

中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」読了

木村蒹葭堂のサロン 中村 真一郎わたしが若いころ、中村真一郎は福永武彦と加藤周一との3人組で、文学というより軽井沢というキーワードで知っている人だった。堀辰雄と立原道造の導きを受けた人たちとして憧れがあった。その反面恵まれた環境に反発もしていた。3人の作品はけっこう読んでいたが、加藤周一の小説はつまらなくて、中村真一郎は情熱的すぎて、福永武彦の小説が好きだったが、それもいまになっては忘れてしまっている。
本書を読むことになったのは、江戸時代に大阪市西区北堀江に住んでいた木村蒹葭堂の碑を中央図書館前で見て気になっていたことからはじまる。そして2003年12月に図書館内ギャラリーで開かれた木村蒹葭堂展で興味がもっと強まった。そのとき手に入れた、大阪歴史博物館編の没後200年記念の「なにわ 知の巨人 木村蒹葭堂」(2003 思文閣出版)がとても勉強になった。中央図書館では2年後にまた展示があって、また興味深いものを見せてもらったら、もっと蒹葭堂について知りたくなり本書にたどりついた。
木村蒹葭堂のことを中村真一郎が書いている!とびっくりしたが、1995年1月から1998年3月まで「新潮」に連載されたとあるので、こちらが無知なだけだった。
去年の年末に図書館で借りてきて読み出し、貸し出し延長して、返してからすぐ借りてまた貸し出し延長し、2カ月にわたって大切に読んできた。当日記でも読む途中に何度か思ったことを書いてきた。蒹葭堂のことだけでなく、江戸時代の人々についてとてもたくさんの知識を得たので、そのときどきに思ったことや得た知識について書いておきたかったからだ。ほんとに素敵な読書であった。中村真一郎は本書を書き上げて亡くなった。「新潮」に連載されたものに遺稿として残された完成原稿を加えて編集したとある。
最後の章は木村蒹葭堂が亡くなったあとのことについて書いてある。蒹葭堂の死を待っていたように幕府は膨大な書物を没収し江戸に送った。【一代の膨大な学術的コレクションは、幕府の意向によって図らずも、江戸の知識人たちに公開されるという、学問上の思いがけない好結果をもたらしたので、寧ろ生前の蒹葭堂の意向に添ったものと言えよう。】と記してある。たかが大坂の商人の道楽だと、江戸の武士層からは故なく軽く思われていただろうから、このコレクションを知って正当に敬意を払われるようになっただろうとのこと。そして木村蒹葭堂は誰にでも知識を分け与えた人だったので、江戸の人たちに見せることになったのは結果的によかったとのこと。それでわたしも安らかに読書を終えた。明日返しに行く。

2007年03月01日

大阪歴史博物館編「なにわ 知の巨人 木村蒹葭堂」

木村蒹葭堂—なにわ知の巨人 大阪歴史博物館わたしは2003年12月に中央図書館で展示品を見たとき本書を買ったのだが、同じ年の1月から2月にかけて、大阪歴史博物館で没後200年記念の展示があったことを知らなかった。同じ年に図書館ギャラリーでの展示を実現された地元の堀江ジャンクションに感謝である。おかげで蒹葭堂さんて何者かなと思って碑を見ていただけのわたしがここまでくることができた。
本書は木村蒹葭堂の業績の全体が見渡せるようになってとても親切な手引き書である。谷文晁による肖像画からはじまって、当時の大阪全図や北堀江5丁目の地図、当時の阿弥陀池の絵もある。
彼は文人画家としても有名で、ここに絵や書がたくさん紹介されているが、わたしは山水画よりも花や鳥を描いたのが好きだ。
辻原登の「花はさくら木」を読んだとき、田沼意次にお茶を出したり話し相手になっていた売茶翁に興味を持ったが、蒹葭堂は売茶翁遺愛の茶道具を蒐集したことでも有名だった。本書には伊藤若冲が描いた売茶翁の肖像が2点ある。そして煎茶を煎れるいろいろな道具や茶碗があり、蒹葭堂が仔細に描いた道具類の絵がある。
その次が真骨頂である物産家としての蒹葭堂で、目録、植物図鑑、魚類図鑑、そして美しく箱に並べられた石や貝の標本、イッカクという魚についての考察、そして世界地図と海外情報等々がある。
その他蔵書についての解説や年譜があって、とても目配りが行き届いている。木村蒹葭堂に入門したい人にお勧め。(思文閣出版 2500円税別)

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