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嶽本野ばら アーカイブ

2004年03月20日

嶽本野ばら「エミリー」

昨夜のテレビ「10代しゃべり場」で嶽本野ばらさんを見たあと、久しぶりに「それいぬ」をあちこち拾い読みした。展開されている乙女論は何度読んでもおもしろい。“なんでそんなにわたしのことがわかっているの”って感じなんである。
だけど、嶽本野ばらが好きだと言ってるわりに、小説は「ミシン」しか読んでいないのに気がついた。買おうと思っていた「エミリー」もまだ買っていない。めちゃくちゃ読みたくなって、相棒が堀江の貸本屋「ちょうちょぼっこ」へ行くというので、ついでに借りてきてもらった。3つの短編小説が収めてあるうち、本のタイトルになっている「エミリー」をすぐに読んだ。
「エミリー」って、エミリー・ディキンソンか、エミリー・ブロンテかと思っていたのだが、それは古くさい文学少女の考えで、このエミリーはお洋服のブランド Emily Tnmple なのであった。主人公の少女は学校から帰ると、Emily Tnmple cute のお洋服を着て、八王子の自宅から原宿ラフォーレの前まで毎日やってきて、人の目から隠れるように地べたに座って過ごしている。学校でひどいイジメにあっているが、Emily Tnmple cute の服を着ていることによって自分を保っている。そんな彼女に声をかけたのが、SUPER LOVERS の服を着た少年だった。彼は彼女と同じ学校に通っているが、放課後この近くの絵画教室に通っている。彼は体育部の少年に憧れて自分が同性愛者であることを知ったが、相手にホモと言いふらされて学校中に知られてしまった存在である。彼は彼女のことを、イジメにあっている有名人として知っているという。二人の哀しいまでの純愛に酔ってしまった。

2004年03月25日

嶽本野ばらの小説を読んだらフジミシリーズを思い出した

嶽本野ばらの「エミリー」には短編があと二つ入っている。土曜日に返すつもりなのであわてて読んだ。あわててと言っても、読みだしたら彼の世界にどっぷりとはまってしまって、用事をしていても夢心地(すこしオーバーか)。
「レディメイド」は、いつもは口が過ぎるほどなのに、貴方の前では言葉を失ってしまうという女性の独白。同じ会社で働く彼を、クールで知的でミステリアスで可愛げがなく母性本能が疼かないと同僚は評するが、そんな彼に惹かれる「私」は彼の関心を惹くために、美術館でMoMA展があることを話しかける。突き放なされたような気分になった「私」だが、帰りにジャケットの内ポケットにMoMA展のチケットが入った封筒を発見する。土曜日の午後1時、デュシャンの「処女から花嫁への移行」の前で会おうというメモつき。
「コルセット」、時代遅れのイラストを描いている「僕」は、偶然入った骨董店で店番の女性と友だちになる。30歳になった彼女はこれから帰ったらお互いに自殺しましょうと言い、本当に自殺してしまう。死にきれない「僕」は精神科で治療を受けながらも死ぬことを考えている。医院の受付の女性に声をかけて一度だけつき合ってほしいと頼み、「身体の夢─ファッション OR 見えないコルセット」という展覧会に行くが…。
「エミリー」を含めて一人称で、それぞれの主人公は自分のことを、とるに足らない人間というふうに述べている。それが相手からは、それぞれがおしゃれで気高いと思われているのがわかる描写なのである。書き手が自分のことを卑下して話すのは「フジミシリーズ」を含む“やおい”の特徴であった。ただし“やおい”の場合は、相手の男性はオトコマエで背が高くて金持ちで自信たっぷりと決まっていた。
嶽本野ばらの場合はそこが違う。“やおい”ではないのだから、そういう“決まり”に関わりないのは当然のことだけど、読み物を超えられない“やおい”の作品とは違う力がある。アートの力と言ったらよいかな。

2004年05月25日

小樽のカフェー光 〜嶽本野ばら「カフェー小品集」を読んで〜

ジュンク堂で友だちに贈ろうと、嶽本野ばらの最初の本「それいぬ」を探したのだが見当たらなかった。1998年の本だからもう廃盤ってことか。その代わりになにかないかと探したら、「カフェー小品集」という短編集があった。タイトルに惹かれて本をめくると、12の短編小説には作品名の下に実在のカフェーの名前が入っている。わたしが行ったことがあるのは、京都の「フランソワ」と小樽の「光」だけだが、両方とも何度も行っている。「フランソワ」はまた行くことがあるだろうけど、「光」にはもう行くことはないだろう。
今夜は「光」の思い出話でもいたしましょう。と言ってもラブストーリーがあるわけじゃない。たまたま失業しているときに、小樽に住む連れ合いの母親が倒れて入院したので、1カ月の予定で介護に行っただけのことである。もう25年前くらい前になるけど、誕生日を小樽で迎えたので覚えているのだが、9月のことだった。入院しているのは小樽の大きな病院だったが当時は付添人が必要だった。それで毎夜病院の付添いベッドで眠り、お昼前に義妹と交代する。家で昼食を食べるとすぐに散歩に出た。ここで気がついたのだが、わたしってネオンが見えないと生きていられない人種なのだ。白樺が植えてある広い公園や港が見える丘へも行ったが、たいていは都通りという商店街へ出て喫茶店に入るのだった。気に入った店がそのときでさえ古ぼけた「光」で、コーヒーを頼むと一切れのカステラがついていた。そこでゆっくりと本を読みながら、交代時間まで時間をつぶすのだった。
いろいろとあって結局1カ月もたずに2週間くらいで帰ってしまったのだが、小樽の商店街だけはもっと滞在してぶらつきたかった。昔は流行っただろう閉められたダンスホールの入り口や壁なんか、すごく淋しげでうらぶれた感じがよかった。そしてそのころは商店街といえども8時頃には電気が消えてしまう。いつもがらんとしている通りが、電気が消えたらもひとつ淋しくなるのだった。

2004年06月09日

嶽本野ばら「カフェー小品集」

「カフェー小品集」は実在のカフェーに、客である「僕」と、僕が愛する「君」の物語が展開するユニークな短編小説集である。
わたしは自分が行ったことがあり気に入っている、京都の「フランソワ」と小樽の「光」の2編を読んだんだけど、行ったことのないカフェーの物語はまだおいてあった。知らないお店ということで、ちょっと取っ付きが悪かったのね。ようやくその他の物語を読んだのだが、頑固に昔ながらの営業を続けるカフェーを舞台に、恋愛論を恋の物語にして展開しているのがおもしろかった。今風のカフェでなく、頑固に古風なカフェーなのである。だから恋も古風になる。古風ということは古くさくてダサイということではもちろんないのよ。
どこでもぱっと開いたページに気に入った言葉があるのだけれど、いま紹介するのは、鎌倉市にある「ミルクホール」というカフェーのお話。ここは経営者が普通の民家を自分の手で改装したという。漆喰塗りの壁の話をしていて「素人だからこそ出来る嘘のない仕事の贅沢さを大切にしたいんです」という店主の言葉に、「僕」は自分の恋について考える。ぎこちなくていい、不器用でいい、いつまでも恋愛の素人でいいじゃないかって。
そこで恋愛についていろいろと述べているのを、全文引用したいところだけど、文章の最後のところだけ引用します。ここがいちばん気に入ったので。
【・・・でも僕は戦うのです。それが負け戦だと解っていても僕は戦う、素人だから。結果が出せるかどうかが問題ではないのです。素人の戦いは戦うこと自体に意味があるのです。】
これは恋愛だけではないわ。野ばらさんの文章にはすごいものがある。(小学館文庫 476円+税)

2006年02月18日

嶽本野ばら「シシリエンヌ」

シシリエンヌ 嶽本 野ばらわたしが嶽本野ばらさんの名前を知ったのはフリーペーパー「花形文化通信」に連載されていた「それいぬ」を読んだときだ。1992年から1997年までの間「それいぬ」を読むために、そろそろ出ているころだとアメリカ村あたりのお店で探したことを思い出す。甘い意地悪な乙女の心をここまで書いているのを感心して読んでいた。わたしのことを書いていると思ったこともしばしばあった。その後文庫本を手にするまで、ただ「花形文化通信」の切り抜きをときどき出して読むだけだった。
本になったのを読むとまたおもしろくて、ずいぶんと人にすすめたものだ。どこの本屋でも見なくなったとき、アメリカ村のヴィレッジバンガードに平積みしてあるのを見つけて、数冊買って気に入った人にあげたりした。
「シシリエンヌ」は最近作ということで買ってみたのだが、書評など読んでいないし、話し合う人もいないので、どんな作品か先入観が全然なかった。開くとすぐにセックス描写である。うおっ、すごいなぁと読み出す。主人公の「僕」は高校3年生で「貴方」と言われている女性は7歳年上の従姉妹である。「僕」は京都郊外に住んでいるが、子どものときから中京区の伯母がやっている美容院で髪を切ってもらっている。そこの娘「貴方」がパリから10年ぶりに帰ってきたのだ。
従姉妹と僕の関係は誰にも内密に続けられる。彼女は高校を中退してパリに行き、ある人の世話でサンドニ街の娼婦用の美容院で働き、自分も娼婦をやったと話す。
彼女は「僕」のガールフレンドに手を出し、女どうしの快楽を味合わせて気まずくさせ、二人の間を断ってしまう。「僕」は「貴方」の言うなりになり快楽を味わう。フォーレの「ペレアスとメリザンド」の物語が下敷きになって恋物語は進んで行く。「シリリエンヌ」は「ペレアスとメリザンド」の中にある曲である。また、いつもの野ばらさんの作品と同じように服がテーマを低音で奏でているが、本書ではYohji Yamamotoの服についての秀逸な考察がある。
彼女が突然の発熱で緑内障になり失明する事態になってからがすごい。物語の背景ががらりと変わり、「貴方」はメリザンドを名乗り「僕」はペレアスになる。愛と献身でどこまでいくのかと読み進むと、またもやすごい結末が待ち受ける。
メリザンドのセックスシーンでの言葉遣いが古典的で澁澤龍彦訳のサドを思い出させるが、内容は澁澤でも三島でもなくバタイユを思い起こさせる。わたしはバタイユの「空の青」を思い出していた。
「それいぬ」から10年、いちばん好きな作家はと聞かれたら、わたしは嶽本野ばらと答えるだろう。(新潮社 1600円+税)

2006年02月19日

「シシリエンヌ」続き

昨夜は明け方近くまでがんばって本を読み、感想も書いたので今日は少し疲れ気味である。感想を書いたからわかったのだけれど、「シシリエンヌ」のテーマは“乙女の残酷”である。「それいぬ」で追求していたことを、さらに「シシリエンヌ」で深めた。野ばらさんは乙女に選ばれし人として、生きていかなきゃならない。なんて勝手に思いついていい気になっている。
さっきMさんが、映画「下妻物語」のサイトに行ったら、kumikoさん好みの言葉があるよと教えてくれた。野ばらさんが紹介文を書いていて、【ハードボイルドじゃなきゃ乙女じゃないという美学が、非常に解りやすい形で物語に集約されています。】と述べられている。「ハードボイルド」と「乙女」という、わたしにとって大切な二つのキーワードがつながって、なんともはや、うれしいことである。「下妻物語」はまだ読んでないので、さっそく買いにいかなくちゃ。

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