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ボランティア アーカイブ

2005年01月11日

阪神大震災10周年は神戸へ行く

阪神大震災から10年が経つ。大阪で地震を体験したわたしでさえ思い出すたびに恐ろしい記憶が甦る。
被災状況が伝えられる中で、自分のできることをしようとパソコンを使ったボランティアをし、仮設住宅ができてからは、現地に行ってわたしのできること、つまり被災者の方々とお話するボランティアをやった。そのときいっしょだった人たちといまも親しくつきあっている。わたしはこのページに「週ボラ」の仲間のことを「旅の仲間」と書いた覚えがある。

週ボラの10周年は・・・【10年目の震災メモリアルデーの前日、1月16日(日)午後1時から4時、神戸市勤労会館の4階「特別会議室」にて、「週末ボランティア10年目の集い」を開きます。これまで10年間の訪問メモや、10周年の記念冊子を見ながら、今後の被災地支援のあり方について話し合います。避難所、仮設住宅、復興住宅と対象が移って来た中で、2万戸を延べ1.5万人のボランティアで訪れてきたことからの想いを、いま立ち止まって考えましょう。】
このような集会が開かれる。わたしはOさん(週ボラで知り合ったVFC会員)といっしょに行きます。

こちらも週ボラで知り合ったVFC会員の西さんからこのようなお誘いを受けたので、その次の日曜日(23日)に行こうと思う。・・・【someday, for somebody いつかの、だれかに 阪神大震災・記憶の<分有>のためのミュージアム構想展 2005 冬 神戸  1月14日(金)〜23日(日)最終日は17:00まで】
○シンポジウム「多元的な記憶を伝えるために」
 2005年1月23日(日)14:00−16:00 CAP HOUSE1Fリビングルーム
 笠原一人(建築史)+河崎晃一(美術)+寺田匡宏(歴史)+山本唯人(社会学)
 司会 西栄一(神戸新聞デジタル編集部)
※期間中さまざまな催しがあります。CAP HOUSEのサイトをご覧ください。

2005年01月16日

「週末ボランティア10年目の集い」

VFCの会員のOさんと神戸市勤労会館で開かれた「週末ボランティア10年目の集い」に行った。Oさんとは週末ボランティアのお正月の甘酒配りで出会った仲である。
わたしが神戸へ行って週ボラの活動に参加していたのは、震災の翌年の1996年から98年の3年間である。その頃は1回ごとに50人を超える人たちが参加していた。2・3人で組んで仮設住宅に行ってお話を伺うというボランティアだった。夏はめちゃくちゃ暑く冬は厳しい寒さの仮設住宅だった。
その後の3年間はネットを通じて参加していたから縁はつながっていたのだが、顔を見ていなかったので、長いご無沙汰であった。代表の東條さんや古参のかたと挨拶した。20数人の参加者の中で知っている顔は半分である。話を聞いているうちにわかったのだが、仮設住宅に行ったことがある人も半分である。ということは“古い革袋に新しい酒”、つまり、古い人が基本を支えてそこに新しい顔があるわけだ。今日も新聞を見て参加された人が2人いた。そしてこれからも復興住宅訪問を続けていくという結論が出た。現役ばりばりのボランティア組織に、わたしのように郷愁の気持ちで参加したのは悪かったかなとも思ったが、顔を見て喜んでくれた人もいるので許してもらおう。
10年間の「支援シート」を読ませてもらったら、わたしの書いたのもあってなつかしかった。98年のには田中康夫さんと連名のものもあった。
最後に今日参加しての感想を話すことになったので、わたしは直接の参加はもうしないけれど、週ボラで学んだ「お話伺い」の技を身の回りに生かしていきます、と締めくくった。

2005年01月18日

久しぶりの神戸

1996年から98年までのあいだ、阪神大震災の被災者が住む仮設住宅へ「お話伺いボランティア」として月に1回は神戸へ通っていた。それも三宮から地下鉄に乗って30分かかる終点の西神とその一つ二つ前の駅までである。駅で集合して歩いて行くときもあり、バスや用意された車で行くときもあった。また、明石駅で集合し車で長時間かかって、山境のようなところまで行ったこともあった。
たいてい帰りは星が輝いていた。あれだけの星を眺めたのは久しぶりで、あれからは一度もない。春先はイカナゴを炊く匂いが鼻をかすめていたし、夏は夕立に降られたり、冬は小雪が舞ったりした。お年寄りといっしょに演歌のビデオを何時間も見ていたこともあった。非日常的な雰囲気の中で日常を暮らしておられる被災者の生活に、なんとも言えない気持ちになった。
最初のころは大阪から神戸までの電車の窓から眺める風景が恐ろしかった。ブルーのシートだらけだし、マンションの2階がどすんと落ちて1階のガレージにある車がぺしゃんこになっているところもあった。
16日の日曜日の昼、OさんとJRに乗り並んで座りながら、きれいになった外の景色を眺めて、あのころの様子を思い出していた。

2005年01月23日

シンポジウム「多元的な記憶を伝えるために」

神戸元町からトアロードを登ったところにあるCAP HOUSEという場所で、阪神大震災の記憶を伝えることについての展示とシンポジウムがあるので行ってきた。三宮から乗ったタクシーの運転手さんはそんな建物あるかいなという感じだったが、元は移民する人たちの施設だったと言うとすぐにわかった。1928年にできた国立移民収容所で、石川達三の小説「蒼氓」にも出てくるという。船をイメージしたアールデコ調で、建物だけをとったらとても素晴らしいが、廊下に貼ってある展示物を読むと、ブラジルへ移民する人たちがたいへんだったことがわかる。
2階が展示室になっている。廊下をはさんで小部屋が並んでいて、それぞれの部屋に展示物がある。壁一面に白い棚があって、区切られたところに封筒に入れた震災の情報が入っている部屋。ビデオを見せている部屋、朗読が聞こえる部屋もある。
シンポジウムは1階の広い部屋で100人近い参加者があり、展示物についての説明も含めて、笠原一人さん(建築史)、河崎晃一さん(美術)、寺田国宏さん(歴史)、山本唯人さん(社会学)の4人が話し、西栄一さん(神戸新聞社勤務でわたしの友人)が司会をした。
テレビ等の報道における特徴である「防災」「教訓」「癒し」「涙」「思い出」は記憶の「占有」や「共有」に過ぎない。被災者(地)共同体に記憶は閉じ込められている。そこから「他者」に何が伝わるか。また防災センターにたくさんの一次資料が保管されているが、その扱いについての疑問があげられた。
そこで、今回の展示になったのだが、当時の出来事を伝えるのに、当事者(特権化)対非当事者(受け身)となってしまうことを避け、出来事の体験を「分有」しようと言う。そして記憶を他者に「託す」のではなく「ゆだねる」というあいまいな方法を取ると言う。「託す」だとある種の関係性ができるが、「ゆだねる」には伝わるかどうかわからない未来に送るということになる。
その他いろいろなことが語られたが、わたしの気持ちにぴたっときたのはこういうふうな言葉だった。「記憶を他者にゆだねるということは、自らを差し出す弱者の立場に立つことだ。」これは震災の記憶だけでなくて、わたしもこのページで自分の記憶をずいぶん書いている。まさに他者にわたしの記憶をゆだねている。そして自らを差し出すのは弱者の立場からなのだと思える。
終わってから西さんと少し話して外へ出ると、週末ボランティアの岡さんが待っていてくれた。しゃべりながら坂をくだり三宮に出てしゃれた喫茶店でお茶した。甘いケーキがおいしかった。

2005年01月24日

神戸で感じたこと

昨日のシンポジウムの場所であるCAP HOUSEの暖房は、大きな部屋にだるまストーブみたいな円筒形のガスストーブが2つあるだけだったので、わたしは要領よくストーブにいちばん近い椅子を確保した。後列には座りやすそうな椅子が並べてあったが、そこに座った人は後ろの窓からの寒気で背中が寒かったと言っていた。でも100人も寄れば寒さはふっとんでしまう。
パネラーのうち3人は神戸の人だが、一人は東京の人でボランティアで神戸に来ていたそうだ。そしていま東京大空襲60年展にかかわっておられる。その関わりで関東大震災を経験した人からも話を聞いているそうで、当事者と非当事者の距離について話すのに適した人だったと思う。
パネラーの方たちは、よそからこの日のために呼んできた人でなく、主催者であり展示した人たちであることもよかった。司会者は知り合いだから内輪褒めになるけど、よくやってはりました。ほんと、よい企画だった。寒い中行ってよかった。
個人的な感慨として・・・2カ月前に107歳で亡くなったわたしの父親は、関東大震災と大阪大空襲で家を焼かれた経験を持った人だった。最後は物忘れがひどくなっていたが、二度の大経験は忘れずに何度も口に出していた。貴重な経験を聞きとったわたしの記憶は大切にしなくっちゃ。
話は変わるが、17日の週末ボランティア10周年のとき、代表の東條さんが「復興住宅への訪問日に決めた場所に行くと、まずSくんが現れて車から必要な品物をおろしてくれる。ばたばたしているうちにメンバーがぼちぼちやってくる。いつも自分一人ではないかと心配するが、それはいつも杞憂に終わっている」と話された。すごいことである。
とてもいろいろなことを考えさせてもらった神戸だった。

2005年02月07日

弱いから強い

1月23日に神戸で行われたシンポジウム「多元的な記憶を伝えるために」で提言された、「体験を〈分有〉すること、そして体験の記憶を他者にゆだねること」、また「記憶を他者にゆだねるということは、自らを差し出す弱者の立場に立つことだ」ということを考え続けている。
昨日の夜、教育テレビの音楽番組をつけたら五嶋みどりのインタビューをやっていた。つけた途端だったのでメモをし遅れたのだが、現代音楽を子どもたちのために弾き、その演奏を子どもたちが受けとめてくれたこと、そのことによって、五嶋みどりは子どもたちと気持ちを分かち合えたと言っていた。そうなんだ、五嶋みどりは伝えたんじゃなくて、分かち合えたと感じたのだとわかった。
こういうことで、わたしの〈分有〉ということに理解も深まっていくみたいだ。震災にかかわる人たちと音楽家と、偶然のようだけど「いま」の空気を吸って活動している人の「いま」の感覚なんだよね。
また、「自らを差し出す弱者の立場に立つ」ことは、弱い立場に立つからこそ強くなれるのではないかと考える。「弱いから好き」(「あの人、弱いからきれい」「あの人、弱いから好き」「あの人、弱いからセクシー」〈当ページ2004年10月〉)と長沢節さんは書き残されたが、弱い立場からものを言う人こそ強いとわたしは思う。

2005年03月30日

ニューライトからアップルストア

Tさんとわたしはかつて、阪神大震災の被災者を支援する「週末ボランティア」のメンバーだった。わたしは月に一度のペースだったが、Tさんはもっと頻繁に参加されていて主要メンバーの一人だった。週ボラはまだ活動を続けているがわたしらは数年前に卒業している。でも、TさんとはVFCでまたつきあうことになったという間柄。
今日は息子さんのKくんが春休みに楽しみにしていた大阪遊びに、二人で出て来たのを案内することになった。午前中は大阪歴史博物館でやっている「阪神タイガース展」に行くそうで、昼過ぎに難波で会うことになった。ご希望はアメリカ村の「ニューライト」でセイロンライスを食べて、アップルストアに行くことである。
御堂筋を北へ行き道頓堀川を渡って左折して少し行く。四ツ橋筋の手前の大黒橋の側にあるのが「ニューライト」。わたしが仕事でよくこのへんを通っていたのはもう10年以上前で、得意先へ行った帰りにご飯を食べたことがある。そのときも古かったが、今日はまたいちだんと古びている。作家の嶽本野ばらさんが若いころによく食事した店と新聞に出ていたのをKくんが切り抜いていて、お母さんを誘ったのである。セイロンライスは450円、それにカツをのせると150円プラスになる。ご飯をカレーに入れて混ぜたものにカツと生卵がのっているユニークなものだ。Kくんは店内を見て、新聞の写真はここを撮っていると喜んだ。
そこから三角公園に出て周防町通りを東へ行くとアップルストアがある。一人でマックと遊ぶKくんを見ながらTさんとおしゃべり。「えーっ」とか「うそーっ」とか奇声をあげて周りの人のひんしゅくを買ったかも(笑)。Tさんのお父さんはマックを何台もを持ってはるそうで、Kくんは3歳からさわっていたとか。
その後はアクタスの地下の「マンゴーシャワー」でお茶してまたしゃべって握手して別れた。楽しかったよKくん。

2005年05月20日

「阪神大震災から10年 未来の被災者へのメッセージ」

今年の1月17日に発行された「阪神大震災から10年 未来の被災者へのメッセージ」第10巻を、週末ボランティア(週ボラ)で知り合った清重さん(VFC会員でもある)が送ってくれた。彼女は本書の44人の記録者のうちの一人で、「ボランティアから専門職へ」という文章をよせている。週ボラでボランティア活動してきたメンバーが、現在それぞれ別々に福祉に関する仕事を選び専門職になっているという。清重さんもその一人だ。そして「生きたいと思っていた人たちの分まで、私たちは生きていきたいし、生きている者同士支え合っていきたい」と書いている。ボランティア活動をせいいっぱいしたからこそ言える言葉だと思う。
それぞれの手記は震災から10年経ったいまも生々しく訴えてくる。子どもや配偶者を亡くした方の悲痛な言葉。「うちは丸焼けだけですんだんや」と言う老人に死者への鎮魂の気持ちをくむ言葉。
本書を10年にわたって編集発行してきた、阪神大震災を記録し続ける会代表の高森一徳さんは、去年の12月に編集を終えて57歳という若さで亡くなられた。わたしはこの記録集を読んだのははじめてだし、高森さんとお会いしたこともなかったが、今回「あとがき」を読んで姿勢を正した。
手記採用の基準について「筆者が自己責任でプライバシーを開示しているのが手記の特徴です」とある。その他の編集方針も納得いくものだ。そして最後の「『被災者正義論』からの卒業」を読んでまた納得した。「泣く子は訴えの内容が利己的ではないと説明し、第三者に人ごとではないとの共感を持ってもらわなくてはなりません」。考えがここまで到着された人にもっと長生きして活動してほしかった。(発売:神戸新聞総合出版センター 1260円)
1巻から9巻までの記録は「阪神大震災を記録し続ける会」に全て収録してあります。

2005年11月15日

あっという間に5時間

Yさんとは阪神大震災の「週末ボランティア」で知り合った。最初の日から言葉を交わしていたっけ。Kくんと3人が週末ボランティアのインターネット班と呼ばれていたころもあった。最初に週ボラの掲示板に書き込みするとき(もう10年も前のことだ)、Yさんにやりかたを教えてもらった。文章の最初と行末に記号を書く、1行空けるのにも記号を書く、おおっ、文字の大きさも記号で変えられる。これってHTMLの基礎だと知ったのは後のことである。週ボラ掲示板では女性差別発言なんかに対して反発したり、ずいぶんと派手に書いて名をなした(笑)。このときの経験がいまものすごく役に立っている。ふふふ。
ボランティア以外でもつきあうようになり、仕事で近くにきたとき寄ってくれたり、最近は仕事を出してくれるお得意様でもある。来るたびにお菓子やお酒を持ってきてくれるので、今日はお返しに、魚料理の磯野家でおいしいお魚と地酒を招待することにした。お酒は春鹿と越乃寒梅、お魚いろいろ。
7時に店に入って閉店ですと言われて気がついたら12時だった。びっくりしたなぁ、5時間しゃべっていたんだ。ネットのこと、ミクシィのこと、バッハとグールドと古楽器のこと、アニメのこと・・・。
今日はじめて磯野家さんに名刺を渡したのだが、それでご主人もマック使いとわかった。また交遊が広がりそう。

2006年12月05日

傾聴ボランティアの先駆け—週末ボランティア

今夜のNHKの「クローズアップ現代」は、「会話していますか 現代の孤独」というタイトルで「傾聴ボランティア」の活動を紹介していた。ひたすら話を聞くボランティアである。すでにたくさんの人が講習を受けてボランティア活動しているといろんな例を紹介しているのを、これなら得意なんやけどなと言いながら見ていた。
わたしが参加していた阪神大震災被災者支援の週末ボランティア(週ボラ)は、話を聞くボランティアだった。「傾聴ボランティア」の先駆けと言っていいと思う。地震の後ものすごくたくさんの人がボランティアに参加した。わたしは直接神戸へ行く体力がないから、自分ができること、パソコンを使って被災者の状況を全国に知らせたり、文字入力したり、カンパを集めたりしていた。
地震後1年経って、これはわたしにもできると思えたのが週ボラの「お話伺いボランティア」だった。これを考えて実行に移した人はほんとにえらいと思う。
各避難所やいろんな避難場所から仮設住宅に移った人たちを訪問して話を聞く。毎週土曜日、たいていの場合、神戸三宮から地下鉄で30分で終点の西神駅で降りて集合、そこから歩いてか、バスに乗って、公園や空き地にある仮設住宅に行った。2〜3人で一組になり、聞き取り用紙を持ってドアを叩く。無視されたり断られることもあったが、おおかたの人たちには受け入れられた。ドアの外で話すこともあり、家に入れてもらってゆっくりとお茶をいただくこもある。こちらからは話さずに相手の言葉に耳を傾ける。聞いたことは聞き取り用紙に書き付けて、終了ミーティングで要点を話し合う。夏は西日のあたるところで日に焼けながら、冬は寒気で足を冷やしながら長時間の話を聞いた。
戦争体験と震災体験を話される高齢者のかたがいた。地震で連れ合いを亡くしたかたの涙ながらの話も聞いた。失業中で生活保護の受け方を聞く人もいた。ずっしりと重い話を受け止めて、ストレスいっぱいになったが、終了ミーティングのあと、もう一度の居酒屋ミーティングで恢復するのだった。
わたしは仮設住宅のときのみで約3年通い、復興住宅になってからは行っていない。あと3年は毎週発行されていた「週ボラニュース」に協力してきた。
見知らぬ人に声をかけてお話を聞くという体験は、ものすごい勉強になった。いまもすぐに誰にでも声をかけるが、向こうから声をかけてくれる場合も多い。知り合いからの打ち明け話もよく聞く。
機会があれば「傾聴ボランティア」をしてもいいのだが、そのうち若い人が話を聴きにきてくれるかもしれないよね。そのときはしゃべるぞ(笑)。

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