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社会 アーカイブ

2004年06月28日

橋本治「上司は思いつきでものを言う」

橋本治の本は最近は読んでいないが、とても好きな時期があった。「窯変源氏物語」は全部読んで感心したし、「花物語」(絵・さべあのま)は大切にしまってある。ずっと昔には「桃尻娘」「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」「秘本世界生玉子」などを愛読したものだ。ほんとにあたまの良い人だと思う。語り口に引きこまれるのが気持ちよかった。
「上司は思いつきでものを言う」の新聞広告を見ていて、おうおう治ちゃん(失礼)なにやってねんなー、とか思ったままだったが、昨日の「朝日新聞」書評ページ「ベストセラー快読」で紹介されていたのを読んでやっぱり買おうと思った。相変わらずのもってまわった書き方らしいが、それがベストセラーになってるなんてすごーい! あわてて買いに行き、昨日・今日でざっと読んでしまった。おもしろかったしためになった。橋本治はいつも真面目な人なのだ。もう一回ゆっくりと読むつもり。タイトルに惹かれて買ったサラリーマンの人も最初は戸惑うだろうけど、読んで勉強になったと思う。
わたしは会社勤めはしたことはあるが、零細企業ばかりで、本当の会社というものは知らない。社長や専務はいたけど、そういう名前のついている人というだけで、“上司”という言葉も意味も知らなかったくらいだ。人に言うときだって“えらいさん”くらいの呼び方ですませていた。ええかげんなやつやった(笑)。その後は自営業で、サラリーマンの下にいる。この本によると、【サラリーマンの下には「零細なお出入り業者」もいるのです。】というわけだ。
話は変わるけど、掲示板をやりだしてから、書き込みされる人によって、上からものを言われたように感じて、妙な反発心がわき上がることがよくあった。この本を読んでわかったのだが、ははん、これが“上司”的態度なんですね。まったく「上司は思いつきでものを言う」のだ。
買って読んでほしいけど、立ち読みするなら「あとがきのあとがき」で笑えます。わたしが引用した部分もそこにあります。(集英社新書 660円+税)

2004年06月29日

橋本治「上司は思いつきでものを言う」続き

「上司は思いつきでものを言う」ことについて、ひとつの“会社”とそこで働く会社員を例にあげて説明しているのだけれど、わたしのように“会社”を知らない人もおもしろく読めた。そして、“会社”で働いている人も納得して読めるのではないかと思った。
思いつきでものを言う上司への対処法は、ただその上司に対して「あきれること」だという。わたしは会社員でないけれども、“上司”的な人とのやりとりが多いので、ふんふんと思った。これから“上司”的な人が出てきたら「あきれる」ことにしよう。【それを「戦い」という不毛にしない方法】という章があるが、わたしがいつも選んでしまうのは「戦い」なんですね。【怒鳴って、その興奮が冷めた後で思うのは、「あの高揚感はなんだったんだろう?」という疑問だけですから・・・】これなんである。まずは、あきれて聞き流す、反省の様子がなかったら「ただそうですか」と」言って引き下がる、これね。うん、うん。
この本はこんなことだけじゃなくて、日本における儒教思想について、官僚機構について、官と民について、もってまわった言い方ではあるが、やさしく説明してくれる。つねづね感じていたことをずばりと教えてもらえてよかった。そして、結論にいたるまわるくどい文章を読むのが楽しい。「あきれる」にいたるまでの寄り道も楽しい。

2004年07月02日

選挙アルバイト

郵便受けに選挙広報が入っていたので、エレベーターを待つ間に読んでいたら、選挙事務所で働いたときのことを思い出した。あの雰囲気は嫌いでなかった。
もう30年くらい前のことだけど、失業しているときに選挙アルバイトの口がかかった。当時の社会党で働いていた友人から、大阪府知事の選挙事務所のバイトをせえへんかと電話があったのだ。お金欲しさに二つ返事で引き受けて、梅田新道の選挙事務所に行った。たしか湯川さんが候補で、自由・社会・公明党の寄り合い選挙だから楽勝ムードだった。バイトも各党からの寄せ集めだったが、なぜか和気あいあいとしていた。高校生から30代までいろんな年齢の人の集まりで、社会党からの3人はなぜか同棲中で、着るものなど勝手気ままでおもしろかった。選挙が終わってからジャニス・ジョプリンのレコードを持って遊びにきたけど、いまごろどうしているかしら。だからといって変わり者3人組が差別されたわけでなく、どっちかというとおもしろがられていた。
一見まじめな高校生は、妊娠した友人の中絶費用カンパを集めていると言って集金ノートを見せてくれた。学校名を聞くと超一流公立高校だったので驚いたが、わたしはそのとき、生まれてはじめて自分が先端を行っている人より「遅れてるぅ」と感じたのだった(笑)。
その次は衆院議員選挙だった。社会党の候補で名前はなんて言ったかしら、そうそう西風功さん。地下鉄の花園町駅前に選挙事務所があり、所帯が小さかったのでやりづらかった。客がたくさん出入りするので、応接セットの灰皿を素早く洗ったりとよく働いたので、そこの上司のウケはよかったけど、どうも内部抗争でもあるのか、イケズをする上司もおりややこしかった。
選挙日が近づくと、電話かけをやらされた。2人で組んで相手が電話番号を押し、わたしが出て話す。その結果を、留守とかOKとかダメとか名簿につけていく。この電話は自分で言ってはなんだが、評判よかった。わたしが話していると事務所はしーんとしていたものだ。ほんまだって(笑)。
女優の望月優子さんが応援にやってきた。さすがに押しが強かった。江田三郎氏はコートをひるがえして走っていった。年取った功労者の人がこられたときは、手を引いて地下鉄にお連れした。3人とももうこの世にいない。ちなみに、湯川さんは当選、西風さんは落選でした。

2004年10月12日

いらち

大阪の人は“いらち”だと言われている。先日の新聞にそれを実証する記事があった。わたしは大阪生まれではないが相当ないらちである。ということは、いらちになるのは生まれではなく、生きている環境なんだ。
今日も中央大通りの信号を渡るのに、青になる前に足を踏み出したら、あそこの信号は、その瞬間に「まだ赤です」と電柱から声が出る(笑)。「もう少しお待ちください」と大阪人の時間心理に合わせてあるのが腹が立つ(笑)。
先日、東京から昔の友人がきたので案内して難波を歩いているとき、赤信号のときに渡ったら、「大阪の人って信号を無視するのね」と言う。そしてたくさんの人が信号無視しているのを見て、「みんなで渡ればこわくないか」っていうので、「なに言うてんのん、それぞれが自己責任で歩いているんや」と怒ってやった。
信号はわかりやすい例えだが、人間関係なんかでもそうなってしまう。「大阪人はじっと変化しない状態で待つことが耐えられない」と新聞に大学の先生の言葉が出ていたが、わたしはその典型やね。

2004年10月23日

ゲバラ写真展

映画「モーターサイクルダイアリーズ」が上映されるのに合わせて、「ゲバラ写真展」がジュンク堂梅田店のあるビルの6階でやっている。明日までなのでVFCの例会前に寄ってきた。ゲバラはなんと言ってもわたしの“青春の思い出”だから。照れながら会場に入ったが、たくさんの人が来ているのに驚いた。若い人も中年の人もいる。
ゲバラはいい男である。笑顔がなんともいえず可愛い。戦闘服とブーツ姿がさまになっている。誰と一緒でも目立ってカッコいい。若くして死んでしまったので、美しいままの姿が残されている。それでいまや世界中の大スターになってしまった。わたし自身もそんな世界の空気の中で写真を眺めている。でもいろんな意味で行ってよかったと思う。
帰りにジュンク堂をうろついていたら、「現代思想」の10月臨時増刊「総特集 チェ・ゲバラ」(1200円)が見つかったので買ってしまった。

2005年03月10日

弥生の空

このところ暖かい日が続いていて気分がよいと言いたいところだが、暗雲が立ちこめている。そう、花粉です。同病の人がたくさんいて、昨日今日は人と会ってもメールでもそればっかり。症状がひどい人が多くて、わたしなんかずいぶんとマシなほうなんだなと思う。とはいえ、からだ全体がだるかったり、考えがうまくまわらなかったりと、当分こんな調子なのだろうな。
今日は東京大空襲60年の集まりがあったとニュースでやっていた。1月の神戸CAP HOUSEでのシンポジウムに「東京大空襲60年展」の企画をされている人がこられていて、とても心にしみる意見を言われたので気になっていた。そういえば、大阪だって「大阪大空襲60年」なのである。60年前の3月13日深夜から14日朝にかけて3時間半にわたって、大阪上空に飛来したB29は274機。浪速区・西区・南区(現中央区)・港区・大正区・東区(現中央区)・西成区・天王寺区が被災した。西区にあったわが家も焼けてしまった。第2回は6月1日、飛来したB29は458機で、港区・此花区・大正区・福島区・北区・天王寺区・東区(現中央区)・大淀区(現北区)が被災した。

2005年04月10日

鋳物の木型

わたしは西淀川区にある鋳造とその加工をする工場で働いたことがある。といっても事務員としてだからえらそうに言えないが。鋳物工場に20人くらい機械加工のほうに30人くらいの工員がいて、ダイハツの自動車部品を造っていた。わたしは給料計算から試算表までの経理と、各種保険事務などあらゆる事務仕事をやっていた。労災保険の請求に怪我の状況を書くなんてお手のものだったなぁ。
今日の話題はそんなことではなくて。
半月くらい前の新聞に出ていた「積水化成、鋳物づくりに新風」という記事のことだ。鋳物を鋳造する工程は奈良時代からずっと変わっていないように思う。細かい点ではいろいろと合理化されたところもあるだろうが、木型に合わせて砂を固めるのは同じだと思う。その木型を作る木型屋さんがいて、図面を見てちゃんと製品ができるように作り上げる。木型屋さんの工作所が近くにあったので、わたしはよく作る行程を見せてもらっていた。論理的な仕事だった。そしてその木型を使って砂で型をつくるのが熟練した鋳物工の仕事だ。見習いで入って習熟するまで何年もかかる。
それが、記事によると外観の模型を発泡スチロールでつくることに成功したという。スチロールが一気に溶けるとともに、溶けたガスが鋳物の中に残らないようにも工夫したとある。
この記事で何十年ぶりに鋳物という言葉を思い出した。そして鋳物工のおっちゃんたちを思い出した。そしてできた鋳物をハツルという仕事をしていた老人、鋳物の芯を作っていたおばちゃん、みんなあれからどういう人生をたどっただろう。

2005年07月10日

FLC15周年記念シンポジウム「戦争・ジェンダー・トラウマ」

FLC(女性ライフサイクル研究所)が15周年を迎えて開催したシンポジウムは、「戦争・ジェンダー・トラウマ」という大テーマだ。重いテーマにしんどそうやなぁと思いつつ、しかし、わたしにとっても戦争とジェンダーは無関心でいられない。話をきくだけでも勉強になるかとお昼過ぎに出かけた。会場の山西福祉記念会館は、阪急東通り商店街を抜けて北野病院の手前にある。最近は梅田に縁があるなと商店街を歩いた。昔よく来たお好み焼きの美舟があった。しょっちゅう行っていた輸入レコードのLPコーナーはなくなっていた。
さて、シンポジウムである。シンポジストはそれぞれ大学の教授で、大越愛子さん(近畿大学)、内藤和美さん(群馬パース大学)、中村正さん(立命館大学)、司会が村本邦子さん(立命館大学・FLC代表)だった。内容はもちろん一言で言えないから、心に残った言葉を書いておこう。4人ともに真っ正面から問題に立ち向かう真面目な話し振りだった。
大越さんは、日本軍の「性奴隷」だった女たちのことを話された。靖国問題にも触れられて、結論は「歴史 His story」の暴力性に「Har-story」を封じ込められてきた側から「Har-story」の再発見ということだった。
内藤さんは、「当事者と調査研究〜当事者と協議するということ」というテーマで話された。年代によって違うことなど具体的に話されたのだが、このテーマはわたしにとっては、ボランティアと当事者の関係とか考えさせられていることなので興味深かった。
中村さんは「アンラーン(unlearn)」という言葉が印象に残った。「反暴力」「非暴力」「脱暴力」でなく、暴力を捨てるという意味での「アンラーン」。
その他、トラウマということで、「加害トラウマ」と「被害トラウマ」があり、被害者ばかりがなぜ悩むのかというのになるほどと思った。
シンポジウムが終わって交流会にも参加させてもらった。ビールとサンドイッチなどご馳走が出て、一人ずつ自己紹介をしながら話した。わたしもけっこうしゃべってしまった。
帰り道のスーパーでつつましく出来合いのおかずを買ったが、たまにはいいとしよう。

2005年12月04日

寒雨の日曜日、細野ビルでお茶会

昨日の午後買い物に出て「寒いですね」と挨拶したら、「明日はもっと寒いそうですよ」と返事があった。ほんまに今日は寒くなった上に雨が降った。午後から日が射してきたので大丈夫かと思っていたら、また雨が降り出した。細野ビルにいるときには雷雨になっていて、後から来た人はアラレが降ったと言っていた。
3時からミクシィの細野ビルコミュニティのお茶会に参加した。例によって野次馬である。若い人ばかりに我々が混ぜてもらって20人ほどだったかな。食べ物は持ち寄り、マイカップ持参ということなので、昨日廣井堂で買っておいたお菓子を持っていった。みなさんすごいすごい、手製のワッフル、メンタイコを挟んだフランスパンが山盛り、それに、せんべい、プリン、シュークリーム、おかき、クッキーなどがいっぱい並んだ。マイカップのそれぞれが可愛い。なるほど雑貨店が流行っているはずだ。
自己紹介して周りの人としゃべっている間に、夜のジャズライブの練習がはじまった。最初からライブ付きのお茶会となっていたのだが、音がうるさくてお茶会のほうは弾まなかった。隣に座った女の子とは楽しくしゃべれたけど、みんなで会話するという雰囲気でなかったのが惜しい。2時間ほどいて帰った。
ミクシィというネットで知り合った人たちと、リアルに会うというのはおもしろかった。細野ビルの場合は、ビル主催の展示などに出品した人がけっこういて、まるきりネットというわけではないけど、それでも、この人が○○さんとわかっておもしろかった。おやつを食べたのは久しぶりだった。

2006年03月12日

「語り継ぐ、空襲—昭和20年3月、東京・大阪が火の海になった日—」

今年もまた大阪西区にあったわが家が、空襲で焼かれた日が近づいてきた。1945年3月13日の深夜から14日の明け方にかけ、B29の攻撃を受けて家は焼け落ち、わたしの家族は命からがら逃げた。それからもう61年経つ。
その空襲で助かった上の兄から、朝日新聞社主催の大空襲の講演会に2人分申し込んだから行こうと誘いがあった。わざわざ申し込んでまで出かける気はなかったけど、券があるなら興味はなくもない。場所はまだ行ったことのない森ノ宮の「ピースおおさか(大阪国際平和センター)」である。ぞくぞくと会場に入っていくのは、ほとんどが戦争の体験者と見受けられた。
東京大空襲については早乙女勝元さん、大阪大空襲については小山仁示さんの話があり、休憩をはさんでお二人の対談と聴衆からの発言があった。
東京には空襲被害に関しての公的機関がないそうで、早乙女さんが館長を務めている「東京大空襲・戦災資料センター」は募金で活動を開始した民間のものである。お話はそこで製作されたビデオを中にはさんで行われた。ビデオの中心は今井正監督の最後の映画「戦争と青春」(1991)の空襲シーンである。原作が早乙女さんで、工藤夕貴が主演。東京大空襲のありさまがすごい迫力で再現されているものだ。
大阪もビデオが中心で、占領軍が空襲の1年後に撮った記録フィルムである。大阪の中心部が焼け跡になっている風景がずーっと映し出されていく。御堂筋のガスビルは目立たないように黒く塗ってあり空襲から逃れている。ここの地下室にわたしの姉は逃げこんで命拾いしたのだ。
お二人の対談の合間に「大阪大空襲を語る会」代表の女性が話された。当時15歳で、土佐堀川と堂島川に沢山の遺体を見たそうだ。満潮時には中之島のあたりまで見えたそうだ。また木津川には色とりどりの着物が浮かんでいたのだが、よく見ると松島遊郭の遊女の遺体だったそうだ。また、話すと後が疲れてと言いながら、目の前で両親が焼夷弾を受けて死亡し、自分も障害を負った女性は、語り継がねばという思いにかられて語り出したという。
そういう言葉を受けて、早乙女さんと小山さんは去年くらいから運動が盛り上がってきたことを受け、「語るしかテがない」「追体験をなしうるか」「経験者は語る義務があり、知らない者は語られることを聞く義務がある」等、説得力のあるお話をされた。
小山さんは旧知の人である。数年前に東住吉区で行われた疑似原爆の講演会に行って、何十年ぶりの挨拶をした。今日は少し足腰が弱っているような印象を受けたが、言葉は明晰だしユーモアがあったし説得力があった。つまらないことを言った人を小言幸兵衛さんみたいにたしなめたのには笑った。いつまでも元気で頑張ってほしいです。

その後は梅田へ出て阪神百貨店で買い物。相方とシャーロックホームズで待ち合わせ、ギネスを飲んで晩ご飯を食べ、難波へ出てツタヤでビデオを借りて帰った。わたしとしては長い外出だったので疲れた。

2006年04月24日

義体という考えかた

今夜10時から11時半までのNHK〈「サイボーグの衝撃」立花隆が探る・SFの世界が現実に!!〉がおもしろかった。語られていることがすっと理解できたのがうれしい。
つい最近までSF的世界はわたしの関心外のところであった。家にはたくさんSF小説があるがもったいないことに、ほんの数冊しか読んだことがない。ところが、「攻殻機動隊」の映画とテレビアニメを見てあっと驚き、士郎正宗の原作コミックを読むにおよんで、サイボーグとか義体とかが身近になってきた。義体という考え方がすごく具体的にわかったみたいな気がしてきた。
今夜はその「攻殻機動隊」の映画監督押井守さんが出演された上に、「攻殻機動隊」の場面がいっぱい出てきた。その上で立花氏が日米の学者と交わした会話や、現場に出かけての発言があった。すでに事故などで失った肉体の一部を、サイボーグ化している現実があるのだ。
立花氏が「義体というのは・・・」みたいな質問をして、押井さんが「義足、義眼・・入れ歯も・・」と言うような返答をされた。わたしはそうそうと膝を叩いた。いずれ義体が普通の時代がくるはずだ。そしてまた押井さんさんは、「都市は義体だ。そして、ぼくらはすでにサイボーグなんだ」と言われた。わかる、わかる。わたしらは、すでに外部記憶装置としてのコンピュータに記憶を残しているもん、ブログとして。ちょっと言い過ぎかもしれないけど、感覚的にそうわたしは感じた。

2006年05月03日

ブログを持った無産者

おとといはメーデーだった。メーデーだと思うとつい歌ってしまう歌がある。「晴れた5月の青空に、歌声高く響かせて・・・」。うんと若いときのことだ。わたしは組織労働者になったことがないので、メーデーに一度行ってみたいと憧れていたんだなぁ。それでこんな歌を覚えて、仕事を休んで友人の労働組合のメーデー行進に紛れ込ませてもらった。楽しかったがむなしかったよ。なんかなぁ、メーデーやってるこの人たちって、零細企業の労働者のことなんか考えてないのがわかったもんね。歌と違うやん。ははは、いまごろ言うてもなんやけど。
春闘というものがあってもおこぼれにも預かれず、バブルにも関係なく、それなのにバブルの崩壊とコンピュータの出現にこっぴどくやられた。だけどおいらはぺちゃんこにされてもへこたれへんのだ(笑)。ずっと地をはうように生き延びてきたのだから、雑草のごとく生命力は強いのだ。いまやブログを持った無産者(笑)として生き延びる。今年のメーデーの誓い。ほほほ。

2006年05月06日

近所で火事

散歩が遠出になってしまい帰りは地下鉄になった。西長堀駅の長い階段を上がったら、わが家の裏のほうから小さな煙があがっている。火事かなと思いつつ家に帰ったら相方がいない。すぐに帰ってきてM食堂が燃えていると言う。入れ替わりに見に行った。M食堂はうちから5分かからない。最近は行かないが、仕事場に通っていたころはよく帰りにお好み焼きを食べていた。2階建ての古い建物で一家でお店をやっているという感じの店である。
すぐ側の道が黄色いテープで封鎖されているので、大回りして火元の数軒手前のお米屋さんの前に行った。ちょうど店の前にいたおっちゃんが「留守中の火事や、可哀想に」と言う。お昼ご飯を運んでもらい容器を返しに行ったら、これから出かけると言っていたそうだ。「そやから誰もおれへんのはたしかや、おばあちゃんも一緒やと思うで」。
たくさんの人たちが見つめる中、消防活動が続いている。もう2時間近くなるのにまだ煙が出続けている。
また大回りして現場の東側にあるアロハドライブに行ったらお店は黄色いテープの内側である。火事のM食堂から5軒隣なのだ。ちょうど外にいた店主のユリさんと出会った。なんとユリさんが第一発見者なんだって。3時ごろ外にいたら煙が見えたので、最初はバルサンと思ったらしいが、火事だーとなって消防に電話した。
7時半にアップされたミクシィのユリさんの日記にさっき封鎖が解けたとあった。店主がバルサンをたいてスーパー銭湯にでかけている間のことだった。
11時過ぎにスーパーへ明日の昼用の食べ物を買いに行くのに前を通ったら、まだ消防車が5台いた。野次馬も20人くらい。大きな懐中電灯を持った消防隊員たちが出てきた。今日のところは終了らしい。

2006年08月14日

お盆の会話

寝付きが悪いのに暑さで早めに目が覚める。いまはVFCの会報(毎月なにかぼやいてるなぁ)づくり中なので、版下ができた順に朝のうちにコピーとりをする。今月もページ数が多い。
さて今日は年に二度の長姉の家を訪問をする日である。食べるものは肉料理が一品とそうめんがあるというので大丸でサラダを買った。こういう売り場を見るのは久しぶりなので勉強になった。和風の魚や野菜がサラダになっている。シラスとトマトとタマネギ、マグロとヤマイモはいいアイデアだ。買ったのはサーモンと生ハムと野菜、ポテトとエビ、ホワイトアスパラガス。おしゃべりしながらビールと冷たい日本酒を飲みゆるゆると時間を過ごした。
今日はなぜか戦中戦後の思い出話が多かった。義兄が旧制中学生のときのことだが、学徒動員で住友金属の工場で働いていたとき、9月5日に四国松山の航空隊へ入隊せよと命令がきたそうだ。壮行会をしてもらった後に敗戦の日がきた。事情がつかめぬまま松山まで行ったら、もう戦争は終わった、今晩は泊まって帰れと言われたという。そのときはものすごくほっとしたそうだ。義兄はいま83歳である。いまのうちにいろいろ話を聞いておかなくっちゃ。

2006年08月23日

好きだった人—作家 水村美苗と詩人 季村敏夫

私は水村美苗さんの「續明暗」が出たときに読んでファンになって以来、書かれているもの全部を読もうと努めてきた。女性誌等に書かれたものも切り取って持っている。いまの日本の作家でわたしがこれほど打ち込んだ人はいない。この日記でもずっとそのように書いてきた。
今日は見落としていたのを人に教えてもらったので、図書館に行き「新潮」1月号に掲載されている「もう遅すぎますか? —初めての韓国旅行」を読みコピーもとってきた。これを読んで初めて水村さんが書いていることに違和感を覚えた。
水村さんだけだったら、ふーんと読み通してしまうところだったのだが、数日前に新聞で違和感を覚えたのと似ているなと思ったのがきっかけになった。
8月19日の朝日新聞夕刊の文化欄に、季村敏夫さんが「あふれる戦時下の記憶」というタイトルで、山形裕子さんの歌集「ぼっかぶっり」を紹介していた。短歌数首を紹介して解説を書いているのだが、それはまあよしとしよう。最後のほうに【どの歌にも、高齢の方の作品とはおもえないみずみずしい情感があふれている。】とあった。一般高齢者はみずみずしくないんかいな?季村さん。わたしは彼の詩集「日々の、すみか」を買って持っていて、尊敬してたけど、もうヤンピだ(笑)。
そういうことがあったもんだから、水村さんの韓国旅行記で、彼女がソウルの高級ホテルのバーで感じたことを読んで「やっぱりなぁ」と思ってしまったのだ。若いときにパリの安ホテルに泊まって幸せだったことの追憶で、通りがかりに高級ホテルの窓に熟年の夫婦が見え、彼女はその姿を一瞬いやだと思い、すぐに彼らの存在を忘れてしまった。若い水村さんにとって、年寄りは存在していない人間だったのだ。30年後に水村さんは自分自身が存在しない人間として、ソウルの街の高級ホテルのバーにいる、と書いている。
そこでわたしが思ったのは、季村さん、水村さん、お二人とも功成り名を遂げはって、お金持ちみたいな気分になってはるんやなぁ、ってこと。わたしなら、もしパリに行ったとしても(行かないが)安ホテルに泊まる。そしたら若者のなかで存在しない年寄りどころか目立ってみせる(爆)。
ここでふと思ったのだが、季村さんの言葉は新聞に載って普通に通用しているのだし、水村さんの言われるような熟年女性は普通にいるわけだし、わたしだけが普通でないだけかも(笑)。しかし、作家や詩人が普通の人だったらおもしろくないんじゃないの。

2006年09月19日

今日の新聞から 〈吉本隆明さんと考える現代の「老い」〉

70年代にわたしは流行していた吉本隆明の本を2冊手にしたが、2冊とも途中までしか読めなかった。それ以来敬遠したままだった。「アンアン」かなんかでコムデギャルソンだかの服を着ている写真を見たこともあったっけ。折につけ新聞や雑誌でわりと目につく人だが、それらの記事を読むこともあまりしていなかった。
今日の朝日新聞の記事を読む気になったのは、テーマが「老い」だからだ。めっきり老けられた写真を目にして、なにを語っているのか気になった。自分より先に年をとっていかれる人の言動が最近気になる。“ああなったらあかん”というのもあるし、90歳になって自分史を書いておられる人(わがVFC会員)には、わたしもそうなるように踏ん張ろうと思う。
吉本氏の繊細な老人の心理についての発言は、記事を読んでもらうことがいちばんなので、気になる人は今日の朝日新聞を読んでほしい。
わたしが感銘を受けたところを書いておくと、【老人という存在はその時間的距離をもう少し大きくした「人間以上の存在」なのだから、それは「超人間」だ。】と述べておられる。そして政治や歴史に属する「大きな歴史」だけでなく個々人の「小さな歴史」があること、大きな歴史だけを「歴史」として考えるのは不十分だと述べておられる。
吉本氏はそのあたりの表現をミシェル・フーコーの本の中で出会った言葉で語っている。【フーコーは、自己への配慮はすなわち社会への配慮に転化できる、配慮という言葉が社会意識や政治意識への配慮も同時に含んでいるということを言いたいのがわかる。】ということで、大きな問題を考えるときも、それを自分の問題とつなげて考えることが大事なのだということ。このあたり大賛成。さすがフーコーええこと言うてる。
最後に老人の問題はやっぱり老人になるまでわからなかった、と言っておられるけど、そう言われてしまうのもなぁ。思想家でしょうが。
いまなら吉本隆明の本を最後まで読み通せるかもしれないけれど、いまさらそれはしない。読むべきはフーコーの「性の歴史」だろうと、ルーペで文字を拡大しながら書物を読む、彼の写真を見ながらわたしは思うのであった。

2006年09月25日

深夜の事故

うちの前の道にはあちこちに〈事故多発地帯〉と書いた看板が立っている。
昨夜ぐっすりと眠っているとき、突然ドカーンと音がした。これは車の事故だと窓を開けて下を見たら、向こう側の歩道に乗用車が横転している。すでに10数人の人が取り囲んで、手助けしようと動いている。横断歩道についた痕から、北方向からきた車がなにがあったのか急に反対車線に入り、街路樹にぶつかって横転したようだ。大きな音はビルの階段にぶつかって止まったときのものらしい。
すぐに警察から2台、消防車が3台、救急車が2台やってきて、車のガラスを割って中から人を助け出した。もう一人は自力で脱出していたらしい。
それからなんだかんだとあって(想像したけど事実でなかったらいけないので書かない)、30分以上経ってからみんな引き上げた。もう4時に近い。車は横たわったままである。それでこちらも横になったのだが、寝つけないうちに車の回収車がやってきた。がらがらと引っ張る音がする。また起きて見ていたら、車道へ引っ張ってきて車を立てようとしている。あちこちになんかして引っ張ったらまた大きな音がして車は立ち上がり、なにごともなかったように牽引車が引っ張って走り去っていった。
朝起きて外を見たらなにもなかった。目が覚めなかったから事故があったのは知らないところだった。知ったからとてしかたないが。

2006年10月06日

ケータイがなかった時代は・・・

美容院へ行ったら先客が顔見知りだった。後の客が現れなかったので、2人と客と2人の美容師とでごちゃまぜの会話となった。彼氏と出会いの話なんかしていたら、矛先がこちらに向かってきて、どこで知り合ったとかいろいろと聞かれてしまった。デートの連絡がたいへんでしたねと言われたが、彼女たちだって10年くらい前には家の電話だったから、彼氏の親が出たり、自分の親が出たりで神経使ってたと笑い合った。
わたしが働きだしたころは、家に電話がなく近くの酒屋さんに取り次いでもらっていた。だから登山やコーラスやデートや恋愛相談の電話はみな会社にかかっていた。ほんまに厚かましい女子事務員だった。家に電話がつながっても家にいないから、やっぱり連絡は会社の電話が多かった。電話がかかるとわたしが出るので、その点は便利(?)だったが、ずいぶんひんしゅくをかっていたことだろう。いまごろ赤面の至り(笑)。
それからポケベルになり、ケータイになり、ケータイをだれでも持つ時代になった。わたし宛のメールはパソコンに送ってもらってるから、ケータイは持って歩く公衆電話のごときものだったが、いつまでもそうしてはおられずなんとか使っている。先日久しぶりにテレビで野球を見ていたら、解説者がケータイなんかわけがわからんと言っていた。あじゃ、そういう言葉を発するのはやっぱりカッコ悪いよね。

2006年11月01日

ホール・ニザンの孫だなんて エマニュエル・トッド氏インタビュー記事

一昨日(10月30日)の朝日新聞に「核兵器」というテーマでエマニュエル・トッド氏と論説主幹の若宮啓文氏との対談が載っていた。検索したら毎日新聞にも3回の連載記事があるそうなので、来日中なのかな。
エマニュエル・トッドという名前をはじめて知ったので、さきに紹介を読んだら、フランスの人類・歴史学者で「帝国以後」など著作もたくさんある人である。ふんふんと読んできて、最後に作家ポール・ニザンの孫とあったのでびっくりした。あの「アデン・アラビア」の、そしてサルトルの親友だったニザンに子孫が存在してたなんて・・・。
わたしがポール・ニザンを知ったのはいつごろだろう。サルトルの書いたもので知ったのだろうか。「アデン・アラビア」が出版され、あの言葉「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとはだれにも言わせまい。」が有名になったから知ったのだろうか。この言葉の魔術で青春の人だったみたいな気持ちでいたのかしら。
さて、トッド氏は実際的な思想家という感じで好感を持った。人類・歴史学者が発する言葉としては異例ではないかしら。堂々と日本は核を持てばよいと言っている。日本の平和主義者からしたら、ただ反発があるだけかもしれないけど、これは考えるべき意見だと思って読んだ。もちろん単に核を持つというだけのことではない。
それで当然「核の廃絶こそ国民共通の願い」と言っている若宮氏とは話が合わないのだが、最後に韓国との間の島の問題で「この種の紛争解決にはお互いがより高い視点に立つこと・・・北方領土でも・・・」と発言して、若宮氏は「トッドさんが平和主義者であることがわかりました(笑い)」と対談を終わらせている。ちょっとしんどい終わらせかたやったな(笑)。

2007年01月14日

セリフ、石に刻んだノミの跡

わたしは英語もできないくせに欧文書体が好きで、文字の見本帳や解説書を眺めるのが大好きだ。ときどき変えるヴィク・ファン・クラブの会報のタイトルなんかを、あれかこれかと探すのが楽しみ。今月はサラ・パレツキーさんからのメールを会報に載せるのに、どのフォントにしようかなと楽しんだ。結局、以前から好きなオプチマにしたのだが、古典的なフォントって品があって素敵だ。
できたのを惚れ惚れと見ながら、オプチマって品があるなぁ、好きやわぁと言ってたら、相方が本を出してくれた。永原康史「デザイン・ウィズ・コンピュータ」(第2版2003)とジェイムズ・クレイグ「欧文組版入門」(1989)の2册である。後のほうは仕事に使ってたものだ。
実は永原康史さんは昔の知り合いである。80年代のはじめに知り合ったころは近所に住んでいて、よく四ツ橋筋のパームスでいっしょに時間を過ごした。カメラマンやミュージシャンや美術家を目指す青年たちの中で、ずば抜けて頭がいい青年だった。彼がいつの間にか東京へ行って10年くらいのうちに「先生」になっているのを知り合いが知らせてきた。本書の第1版がデザイン書の売り場に平積みしてあったもんなぁ。
それで、今日の話題との関連なのだけれど、本書の14ページにある写真「トラヤヌスの碑文」に刻まれた文字のことである。
【AC.100ごろ トラヤヌス帝によってローマの中心部に建造された大円柱の基盤にある碑面に彫られた文字。ラテン語文化圏のタイポグラフィのすべての基準になる遺産といわれている。すでに字形は完成しており、今もなおタイプフェイスは石に刻んだノミの跡を継承し続けている】
とある。欧文書体でセリフとサンセリフに大まかに分けられるのは知っていた。文字見本帳によると、セリフは「文字の主要なストロークの先端から突き出る小さな爪状のストロークのこと」である。それは知っていたが、その元が石に刻まれたノミの跡とは知らなかった。

2007年01月17日

こんなことをした—ファックスボックス

阪神大震災から12年経った。当時はインターネットがまだ広がっていなくて、わたしもパソコン通信でメールしてたし、ニフティの会議室に入って発言していた。機械オンチのわたしには最初のころはニフティにつなげるだけでも大変だった。所定の数字やアルファベットを打ち込むと、なんとも言えない破壊的な音がしてつながったものだ。
震災当初は大阪ににいてできることをと、文字打ちやレイアウトやカンパ集めのボランティアをしていたが、1年後には神戸へ行って週末ボランティア(週ボラ)の仮設住宅訪問活動に参加しだした。
そののころには、すでにインターネットをISDNでつないでいて、週ボラサイトの掲示板に書き込みをはじめた。あら、もう11年前になるんだ。
週ボラ代表の東條さんに、ファックスボックスに情報を入れるように頼まれたのはこんな時期だった。たしか名称を「こうのとり」と称していたと思う。わたしがインターネットで震災ボランティア情報を探してプリントする。それをファックス機を操作して所定の私書箱みたいなのに入れるのだ。情報を見たい人は番号を打ち込めばいつでもその情報をファックスで取り出すことができる。インターネットが普及するまでの過渡期の情報伝達手段だった。
おかげでまだインターネットを見ることに不慣れだったのが、情報を探すことで見慣れたし、プリントしたのを読みやすくレイアウトしたり編集したりすることも覚えた。あんまり実用の役に立たなかったけど、わたしには大いに役立った。
その仕事は1年くらいで「ご苦労様でした」と中止になったけど、ネット普及するまではいろんな手段で情報を送ろうと考えたのだし、こんなこと普通に暮らしていたらわからへんから、わたしとしてはいい体験だったと思っている。

2007年01月20日

ヴィクからバルサまでの道のり

「攻殻機動隊」テレビシリーズの神山健治監督が、新しいアニメ「精霊の守り人」に取り組んでいる姿を、昨夜NHKの「にんげんドキュメント」で見た。
まず脚本を書く数人と山荘に二泊三日の合宿して討論する。その結果を延々と続く会議で練り上げる。また自身でコンテを描き討論するうちに主人公の性格や姿が出来上がっていく。また神山監督の故郷、秩父の断崖絶壁にスタッフを連れて行き、苦難の場所のイメージを作り上げる。
物語は中世アジアを感じさせる世界での出来事を描くファンタジーで、主人公が30歳の女性用心棒バルサである。バルサの造形に力を注ぐさまが興味深い。決して諦めないバルサだが、ときに疲れて弱音を吐きたくなるときもある。それを直接のセリフで言わずに見る者に伝えるにはどう表現したらよいか討論が続く。

見ていて、あれっと思った。バルサってヴィクじゃないの。決して諦めない女性。バルサは命をかけて少年を守るが、ヴィクも命がけで子どもを守る作品が多い。
先日、サラ・パレツキーさんからメールをいただいた。ヴィクが世に出た「Indemnity Only」は1982年に出版された(その訳「サマータイム・ブルース」の出版は1985年)ので、今年は25周年になると書いてあった。
わたしたち日本の読者はサラ・パレツキーとヴィクからたくさんの励ましをもらってきた。ミクシィのコミュに書いてくださるのを読むと、ヴィクとともに歩んできたという人が多い。いまはこうしてアニメにヴィクの気持ちを持った主人公がいる。若い女性たちがバルサのファンになるだろう。わたしは感慨無量。

2007年02月02日

大治郎と三冬のその後に想いをはせる

毎週火曜日の8時からサンテレビ(神戸のテレビ局)で「剣客商売」を再放映している。最初に気がついたときは渡部篤郎が大治郎をやっていて、わたしははじめて見るのでうれしかった。去年は野球をやってない日や雨で中止の日に放映されていた。野球シーズンが終わってからは毎週だが、いつのまにか大治郎の出番がなくなり、数週間後からは山口馬木也と寺島しのぶに変わった。こちらのほうは一度全部見たのだが、飽きずにまた見ている。好みから言うと大治郎は渡部篤郎のほうだが、山口馬木也もなかなかよいし、寺島しのぶは気品ある三冬でぴったりだ。
今週は三冬が妊娠したことを秋山小兵衛とおはるの前で知って、大治郎が三冬の父である田沼意次のところへ知らせに走る。そこのところで、わたしは大治郎と三冬、そして生まれて小太郎と名付けられる子どもの将来に想いを馳せるのであった。
いま最後のところを読んでいる中村真一郎の「木村蒹葭堂のサロン」は、田沼意次失脚によって大坂の一ブルジョワジーである蒹葭堂さんもひどい目にあう。ましてや意次の娘の三冬と夫で田沼道場師範の大治郎への風当たりはどんなだったろう。小太郎はどう成長していくのだろう。何事にも筋を通す大治郎としっかりした三冬だから、逆境でもしっかりと生きては行くだろうけどしんどいやろなぁ。
しっかりと歴史を学んでないから、「剣客商売」を読むまで田沼意次を悪いヤツと思っていたわたし。それ以来、ちょこっと日本歴史をかじっていたら、辻原登「花はさくら木」に出会い、カッコいい意次にまた出会えた。今度は「木村蒹葭堂のサロン」で江戸時代の文化が花開いた田沼時代を知った。

2007年02月08日

「出過ぎた杭は誰にも打てない」

今夜10時からのNHKテレビ「プロフェッショナル」は、マサチューセッツ工科大学教授の石井裕さんに密着した番組でおもしろかった。仕事の内容はもちろん理解を超えているけど、前のめり気味に走るようにして大学へ通い、食事をする間も惜しんで人に会い、学生を面談し会議する姿にうたれた。
いつもすごく重そうな黒皮のリュックをかついでいる。対談者が中身を見せてほしいと言ったら、まずノートパソコン(マック)が出てきた。それといっぱいアイデアが書きつけてある手帳。マックには2歳になる娘さんの可愛い写真も入っている。
大学を出てからNTTに入って働いていたが、何年も仕事の後で研究した結果がマサチューセッツ工科大学に認められて招聘された。そして日本での研究の継続ではなく、新しい研究をやるようにと言われたという。
石井さんが最後のほうで言った言葉が「出過ぎた杭は誰にも打てない」だ。「出る杭は打たれる」けど、出過ぎてしまえば打たれないというのだ。

全然話が変わってしまうけど、わたしはいつも出る杭なもんで打たれ慣れている。そして打たれ強いとは思っているけど、そうか、出過ぎたらいいのか(笑)。わたしの場合は出過ぎるのはいいが横から打たれそう。たいしたことで出過ぎているわけではないんだけど(笑)。

2007年05月11日

朝日新聞の購読をやめる

長い間わたしは新聞を読むのが大好きだった。字が読めるようになってからずうっと読んできた。それも「朝日新聞」を生まれた家でも独立してからもとっていた。仕事場を持つようになって「日経新聞」もとることにした。阪神大震災後にはネットに情報を載せるため新聞記事が必要になり「毎日新聞」「神戸新聞」もとることにした。新聞小説を読むのが好きなので夕刊と合わせて8つの小説を読んでいた。そうそう、阪神タイガースの試合結果を読むため「日刊スポーツ」もけっこう長くとっていた。
ボランティア仕事が終了して「神戸新聞」をやめ、仕事場を閉めたので「日経新聞」をやめ、数年前から「毎日新聞」をやめて結局「朝日新聞」だけにした。

最近「朝日新聞」がおもしろくない。おもしろくしようと努力しているのはわかるんだけど、わたしがおもしろいと思う方向ではない。例えば、文化欄に大学の先生の写真が大きく出ている記事があった。わたしにはその先生が言ってることが全然おもしろくなかった。それから書評がほめあげていたせいでよく売れたという本があった。わたしはもともとその本を買うつもりだったから買ったのだけれど、その書評家の言葉があまりにも甘いので、そういう書評を載せる新聞がいやになった。直接の原因はこの2つであるが、それ以上に新聞を読むとつまらない感情を使うことに気がついた。週刊誌の広告を読んで溜飲を下げたりするのはよろしくない。それと新聞広告に勢いがない。10数年前の新聞広告はおもしろかった。

相方はかなり前から新聞を読むのをやめている。時間がもったいないと言う。わたし一人が読んでいるのだが、ほんまに惰性で読んでいるのだ。で、今日の新聞でいやになったのは「虎やっと連休明け」というタイトル。なんで連休やねん、戦いに負けた(9連敗)というのになんで連休?

というわけで、販売店へ今月いっぱいでやめると電話した。ここに住んでからずっと頼んでいて、早くから銀行引き落としにしているから手間のかからないお客さんだ。なにかご不満でもと聞かれたが、読む時間がないからとのみ答えておいた。

2007年05月31日

朝日新聞の購読は今日で終わり

今月の11日に書いたとおり今日で朝日新聞の購読をやめる。今日の夕方になって販売店の営業マンが来て、6月からまたお願いしたいと言う。5月でやめると言うてるのに、6月からとれとはなにごとかと思ったら、なにかくれるという話だった。うちが断ったのをすごく軽く受け止めているのに驚いた。だまって何十年もとっているのだから、なぜ止めるのか話を聞きにくるのならともかく。
電話では係の人でなかったので簡単に断ったが、今日はせっかくだから言いたいことを言った。でも、最近の朝日新聞で気になった記事のことを話しても、わたしらより朝日新聞をよく読んでないみたいで(笑)。販売店の人の苦労はわかるけど。

やめると電話したあとも新聞は読んでいた。連載小説の続きが問題だったが、佐藤義清がこれから出家して西行になるのだから、後はもう読まなくてもいい。
やめるのにモンクを言うって、後足で砂をかけるというのかな。でも、これだけは書いておきたい(笑)。29日の天声人語、「ハードボイルド小説の・・・」からはじまり、ダービーで優勝したウォッカからギムレットに話をもっていくのは、なんとも言えない好かん文章だった。ああ、断ってよかったとしみじみ思ったのであった。

2007年06月02日

新聞のない朝はすがすがしい

お昼過ぎまで寝ていたので朝とは言いにくいが、朝起きて新聞がないとすがすがしい。これが先月のはじめまで新聞休刊日が手持ち無沙汰で困っていた人間の言うことか。人間は変わるものなのね。ははは。
それと、チラシがないのがいい。ずっとチラシにいたるまで一応目を通していたが、最近は役に立つことってなかったなぁ。東急ハンズのチラシが入っていても見なくなっていた。いっときはあれが欲しいこれが欲しいと見ていたのにねぇ。欲望に関するスイッチが切れちゃってるのね。
食事のあと、去年の秋に1年間とって欲しいと知り合いに頼まれて6000円払った「いきいき」を開いた。本誌はぺらぺら見るけど、付録2冊はそのままゴミ箱へ行く。だって、ファッションも生活用品も旅行も関係ないんだもん。最近とみに新聞も雑誌もいかに団塊の世代のお金を使わすかの記事が多いように思える。
ネットニュースを入念に読んで、ご飯のときにはテレビでCNNニュースを見た。ニュースについてはこれで充分だ。書評や文化欄にあたるものは、知り合いのブログのほうが生きがいいしおもしろい。テレビ番組もネットで間に合う。

2007年06月20日

新聞紙とも、さよなら

新聞をとるのをやめて20日。今日は新聞紙がいるときがあるんじゃないかと思って、物入れの一隅に半月分くらいの古新聞を置いてあったのを処分した。古新聞を使うことってめっそないのにね。やめたときはまだ新聞紙に未練があったのね。
新聞をやめてから毎日のゴミが減ってうれしい。新聞の他にチラシが毎日たくさんあったから、ほんとにすっきり。新聞紙が必要なときは目の前のコンビニで買う。
ついでに、新聞の切り抜きしてあったのも捨てた。置いてあっても読まないのに、後で読もうと切り抜いていたりしてたからね。けっこうあった。これで物入れが空いたし、切り抜きをストックしてあった箱が空いた。
いままで何十年も新聞記事のタイトル文字の大きさでニュースの大きさを受け取っていたが、いまはネットニュースで気になったのを読んだらじゅうぶん。検索すれば知りたいことはたいてい出てくる。天声人語より知り合いのブログのほうが楽しいし勉強になる。

2007年07月19日

タイガー計算機ってあったね

ちょっと他のことで昔のことを思い出す必要があって、ついでに働きだしたころのことを思い出した。ある零細企業の事務所で働いたとき、計算はソロバン、帳簿つけはペンだった。もちろんどこでもそうで、書類は邦文タイプで打つのだった。その上、年配の社員にコヨリが縒れるかと聞かれた。わたしが縒ったらよれよれで綴じ紐にならん(笑)。
それからさっき、電卓でお金の計算してて、昔はソロバンやったなぁ、けっこう早くできたっけと思い出したら、父親が計算尺というものをくれたのを思い出した。30×3センチくらいの物差しみたいなもので、線と数字がいっぱい書いてあった。1×2とか答えのわかっているのだけできた(笑)。
それからタイガー計算機というのがあった。これはとっても神秘的だった。労働基準監督署に書類を持って行くと、検算するのに、タイガー計算機でがしゃがしゃやってハンドルをまわすと答えが出る。うっとりと眺めていると職員の人が「ぼくらソロバンできひんからね」と言うのだった。
あっという間に電卓が出回って、ソロバンを使わないようになったが、最初のころは電卓の答えをソロバンで検算したりしていた。すぐに信用するようになったけど。

2007年12月31日

こういう生き方  Freestyle と Maestro

FREESTYLE: THE ART OF RHYME MAESTRO マエストロ 昨日は「Freestyle」(2004 監督ケヴィン・フィッツジェラルド)、今日は「Maestro」(2003 監督・脚本ジョセル・ラモン)と続けて2本の音楽もの映画をDVDで見た。フリースタイルとクラブシーンはどうして生まれて、どういう具合に進んできたのかの勉強である。
もう4年近く前になるけどDJとはなにをするものかと本で勉強した(笑)。それからクラブに行くようになり、あのDJが好き、あのDJは好みでない、なんて言うくらいに進化したけど、ヒップホップはまだ遠かった。一度、本町の "nu things" でヒップホップの3バンドを聴いたことがあるだけだ。そのとき出演した「モノクローム・プロダクション」のメンバーが休憩時間に話をしにきてくれた。高齢者でしかも女だからね(笑)。

今年の夏ごろから相方がクラブ活動(?)に精を出すようになり、いろんなクラブへ出かけるようになった。わたしには踊ることも、しょっちゅう朝帰りも無理である。
でも、話を聞くとずいぶんとおもしろそう。相方が行き出したころに「Freestyle」と「Maestro」はつき合って見たのだけれど、ふーんという感じだった。でもこの何カ月に満たない間に、また〈門前の小僧さん〉をしてかなりわかってきた。で、なぜか年の終わりだから見ておこうと思ったわけ。

「Freestyle」では、フリースタイルは1973年にサウスブロンクスではじまったと歴史的な説明もあり、書かれたライムと書かれないライム(フリースタイル)があるなんてことも説明がある。
ライムというのはヒップホップのリズムにのせて歌うというか語りというか(歌と語りの中間か)。言葉使いが絶妙で、それを即興でやるというスリルが魅力なのだ。
この映画ではいろんな人がヒップホップについて語っているのだが、ジャズ(コルトレーンやモンクやマイルスの映像があった)の歴史の延長にあると話す人がいて納得できた。
男性だけの世界かと思ったら、女性がいてみんなイキがよくカッコいいのだ。中でもバハマディアが良かったので YouTube を探したらけっこうあった。次はCDを買うことにする。

「Maestro」のほうは、パラダイス・ガラージとロフトというクラブを中心に、そこで活躍したオーナーやDJについて語っている。そのころの関係者は、DJは誰がはじめたかという質問に、「火を発見したのは誰だと確定できるか?」と聞き返していた。そしてDJはストーリーを伝える人である、曲を認知すること、レコードの溝を読むこと、などなど・・・そしてエイズの流行がありオーナーが倒れて店が閉じられ、最高のDJは麻薬に犯されて死す。

この2本の作品で、わたしの知識はえらく増えたけど、すごーく共感した言葉に出合った。パラダイス・ガラージの常連だった人だけど、16歳のときガラージに行くなと父親に言われる。彼は「僕の人生に口出しするな。出て行くよ、と傷ついて家を出たよ。36年経ったいま、レールを踏み外してもこうして生きている」とニコニコして言う。まあいうたら、わたしもこの人とあまり変わらない。レールには乗らなかったけど、まあこうして生きているもんね。

2008年02月06日

「その時歴史が動いた」の鬼平さん

さっきテレビで、NHK「その時歴史が動いた」(シリーズ江戸時代の危機② 天明の飢饉(ききん)江戸を脅(おびや)かす ~鬼平・長谷川平蔵の無宿人対策~)を見た。
鬼平さんこと長谷川平蔵は実在したということは「鬼平犯科帳」を読めば書いてあって、物語はフィクションではあるけど、こんなすごい人がいたんだと思いながら読んでいた。
最近は「鬼平犯科帳」を開いていなくて、もっぱら「鬼平料理帳」のやっかいになっているだけなので懐かしかった。池波正太郎を読むのもっぱら「剣客商売」に片寄っているので、また「鬼平犯科帳」を読みたいものだ。でも、読み出したら熱中して全部読むだろうから、これから読む本が積んである状態ではちょっと無理だわ。

この番組では火付盗賊改で有名な長谷川平蔵が、それだけではなく、石川島(いまの中央区佃島公園あたり)に人足寄場をつくり、巷にあふれる無宿人たちを集めて、手に職をつけさせて世の中に送り返した業績を取り上げている。
NHKのサイトに詳しい内容があるので興味があれば読んでみてね。再放送もあるようだ。

2008年03月04日

「中国・南京を訪れて—対話を通じた新しい平和教育の試み」という会に行ってきた

村本邦子さんは立命館大学教授で女性ライフサイクル研究所(FLC)の所長でもある。わたしは13年前に新聞で知ったFLCの年報「女性ライフサイクル研究」(阪神大震災の特集号)を読んで会員になった。それ以来ずっと年報や刊行物を読んで、3年に一度くらい会合に参加するだけだだったが、今日は大きなテーマの集会なので久しぶりに出かけた。去年の11月に南京へ行かれた村本さんの報告会の二回目である。

会場のアジア図書館に行くのに遅刻してしまい、行ったらはじまっていて村本さんの話の最初の部分を聞けなかったドジなわたし。
淡々と低い声で話されていたが、最後のほうで強調されていたことが心にしみた。わたしは以下のように聞いて納得した。
〈南京に出かけて加害者としての恥を味わった。上の世代の人たちのしたことで、自分が苦しんでいる。これからの人たちにこの気持ちを味合わせたくない。
いざというときに正気を保つことはむずかしい。自分のためにだけでは頑張れない。なにかを守るためになら頑張れると思う。〉

後半は南京に同行された人たちが報告というよりも感